【阪本研究所】 SK laboratory 代表 Kazuyoshi Sakamoto

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日本でキリスト教の布教に苦労したのはなぜか?「ザビエルの憂鬱」  #キリスト #イエスキリスト #Jesus #Christianity #Bible #キリスト教の信仰 #ザビエル

日本でキリスト教の布教に苦労したのはなぜか?「ザビエルの憂鬱」  #キリスト #イエスキリスト #Jesus #Christianity #Bible #キリスト教の信仰 #ザビエル




ザビエルは、通訳兼案内人のヤジロウと数人の宣教師を引き連れて戦国時代の1549年に日本を訪れます。






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まず、薩摩に上陸して守護大名である島津貴久(しまずたかひさ)に謁見し許可を得た上で、ザビエルは無鉄砲に選挙許可をゆだねるのではなく、南蛮貿易の利益という島津にも徳のある交渉材料をしっかりと用意して日本を訪れます。さらに、ヤジロウが行った通訳によって、招かれた大きな誤解も相まって当初、ザビエルらは薩摩の人々からかなり歓迎されます。





誤解というのは、実は通訳係だったヤジロウは島津に対しザビエルを「この人はインドから来たお坊さんです。」と紹介したのです。確かにザビエルはインドで布教活動をした後に日本にやってきていたがザビエルの出身はスペインでインドとは微塵も関係がないのです。


さらにザビエルの教えを通訳する際にはキリストのことを大日、すなわち大日如来という仏の名で翻訳してしまったので、人々は皆、ザビエルのことを「仏教の本場インドから来た偉いお坊さん」で彼の布教する教えは、仏教の宗派の一つだと勘違いしていたのです。





でも、この勘違いがあったからこそ、宣教したちは門前払いされることなく薩摩で戦況活動を行うことができたのです。その後彼らは薩摩にて不況や親しくなった仏僧との宗教論争に勤しみ着々と信者を増やしていったのです。しかし、その様子を見た領地の仏教僧が反発したことに加え、ザビエルの提示した貿易の利益が芳しくなかったことから徐々に島津は禁教に傾き、これを察した一行らは京を目指して薩摩を去ることにしました。




つぎに訪れた平戸では、ザビエルがポルトガル戦に歓迎される姿を領主が目撃したことで早々に宣教許可が下ります。ここでは特に妨害を受けることもなく厚遇の中で改宗者を多く獲得することに成功したため、ザビエルは同行者の一人にこの地を任せて次の場所へ移ることにしました。これが念願のイエズス会の日本支店が平戸にオープン!





しかし、ここからがザビエルの苦労と戦況の行き詰まりが始まります。博多下関を経て山口に到達した一行は当初無許可で不況活動を始めました。当初は、大きな問題もなく活動を行っていましたが守護大名である大内義隆との謁見で事態は一変します。この時、まだインドの偉いお坊さんだと勘違いされていたザビエル一行は、話の流れで、仏僧の恋愛感について触れることとなります。





当時の日本では男性同士の恋愛が当たり前のように存在しており、戦国大名はもちろんのこと、女性との恋愛が禁じられていた仏僧すらも、男性同士であれば恋愛が許可されていました。カトリック教会では同性愛は禁忌とされておりザビエルは彼らの恋愛に対して説教を始めます。これを聞いた大内や周囲の人々はとうとう、「この宗教違うのでは?」ないと気づき、「我々の恋愛をバカにするな!」と憤りながら一行を追い出しました。




こうして山口を追い出された一行はようやく目的の京を訪れます。しかしザビエルが期待を抱いていた都は戦国の動乱により見る影もなく荒廃しており、さらに比叡山の僧侶要請機関が異国人を入れることを拒んでいたために、彼らはわずか11日で今日を去ることとなったのです。




泣く泣く京を去った彼らは再度山口での活動を始めます。すでに痛い対立をしてしまっている一行は、平戸に置いておいた献上品を3度にわたってこれでもかと持ち込み、最高に着飾った上で再度、大内義と謁見します。この贈り物に気を良くした「大内義孝」は彼らに宣教許可と信仰の自由を認め、廃寺となっていた「大道寺」を日本初の教会として提供しまし
た。




こうして教会を手にした彼らは1日に2度の説教を行い、「山口の討論」と呼ばれる仏僧との頂上決戦を行います。ここでザビエルは仏教の穴や矛盾をつきまくり、僧侶の自堕落な生活を全力で批判します。





討論の場に集まった僧侶の多くは禁じられた酒を飲み、僧とつながるといった腐った生活をしていました。そのため人々からの信頼を失い、2か月で約500人がキリスト教に改宗します。


ただ、このまますんなりと、信徒が増え続け、「めでたし、めでたし」とはいきませんでした。というのも、ザビエルらが庶民農民にキリスト教を布教しようとしても、日本人は他の国の人とは違い、すんなりと話を飲み込んではくれませんでした。日本人が宗教に無関心だし、興味持たなかったとか、そのような意味ではありません。




そもそも、日本人は宗教に無関心というよりは、意識するまでもなく宗教が生活に溶け込んでいるのです。無関心に見えているだけといった方が正しいかもしれません。日本人は聖典と呼ばれるものを読み込んだりはしないし、自分は教徒だという自覚も極めて薄いのは確かです。




当たり前のように神社仏閣に参拝しに行き、先祖を供養し、南無阿弥陀仏くらいの言葉はすっと出てきます。意識するまでもなく宗教、とりわけ仏教の教えが生活の根底に染み込んでいます。では、純粋に教えを理解できなかったってことでしょうか?



いいえ、むしろしっかり理解しすぎていました。例えば、ザビエルがキリスト教のことをいかに尊くありがたい教えであるかを語れば、日本人はすっと飲み込むのではなく、不思議そうな顔で「なぜ、それほどありがたい教えが今まで日本に来なかったのか?」と質問します。


さらに、ザビエルがこれに応え、「入信儀式である洗礼を受ければ救われる」と告げれば、「洗礼を受けず、この教えも知らない先祖はどうしているのか?」と質問し出して、これにザビエルは素直に「洗礼を受けてない人は皆、地獄行きだ」と答えると、日本人は「お前の信じる神はずいぶん無慈悲で残酷だ。全能の神ならくらい救ってくれてもいいだろう」と怒りながら追求してきます。的確に言いたいところついて論破してくるのです。ザビエルたちも困り果てます。




他にも、日本人は身分に関わらず「なぜ神は万物を作る際にあくまで一緒に作ったのか」とか、「神が作った世界に悪が存在するのはおかしいのではないか」などといった鋭い質問をしてくるため、宣教師たちは説得するのになかなか苦労したと言われています。逆に他の国ではこういう事態にならなかったのでしょうか?


このあたりに関して、文献を見る限りはならなかったようです。先祖に関していえば、日本ほど祖先崇拝の意識が強い国はあまりなかったのかもしれません。また、日本は昔から仏教を受け入れつつも神話に登場する八百万の神々を崇めるような多神教を採用していたこともあり、一神教であるキリスト教の考えに疑問を抱くことが多かったのです。




それに、仏教には禅問答と呼ばれる悟りを開くために行う問答も存在するし、元々何かを理解し疑問を問うという習慣が身近にあったことも関係しています。


実際、ザビエルはローマにいるイエズス会のメンバーに当てて、「本人は文化水準が高く、粗探しをされます。そのため学識のある神父が必要です。特に哲学がよくでき、弁償法に優れた人物。僧侶との討論で明らかになる矛盾をすぐに捉えられる人が必要です。よほど立派な宣教師でないと、日本の不況は苦労するでしょう」と綴っていました。





日本人がいかに宣教師らに対して問答を行っていたかが伺える一面です。ただ、日本人の問答はキリスト教を全否定するためのものではなく、単に疑問を解消したいがために行われているものだったようです。


しかし、ながら、ザビエルはそんな当時の日本人の気質を悪くは思っていなかったようで、メンバーへの手紙では、「好奇心が強く、うるさく質問し、知識欲が旺盛。また、質問には限りがありません。また、彼らの質問に私たちが答えたことを彼らは互いに質問しあったり話したりして尽きることがありません。その文化、礼儀作法、風俗習慣はスペイン人に勝る日本人ほど理性に従う人民は世界中であったことがない。」と書いています。





彼がインドからの知らせがないことを心配し、日本から去る決断をした際には、精魂つき果て、「自分の限界を試された」ともこぼしていまいしたし、彼にとって日本での宣教活動が相当つらかったことも間違いではありません。こうして2年3ヶ月ほどの宣教活動を終え、インドに戻ったザビエルは、その後、中国での布教活動を開始すべく船旅に出ます。



しかし、彼は中国国内での活動前に病で命を落とすこととなります。ザビエルは一回日本にきただけです。また、彼が日本にいた時間はそう長くはなく、着々と浸透を増やしてはいたものの、納得がいくまで問答を行っていたために入信までに時間がかかったこと、宣教師の人数が少なかったことなどが災いし、彼が日本にいた間にあまり大きな成果は上がらなかったのです。


2年間、庶民からの様々な質問に答え続けて、改宗できたのは約1000人。成果がたいしたことないとはいえ、彼が切り開いた道は他の宣教師に継がれ、その後も日本ではキリスト教の布教が広く行われました。彼の死後、日本での布教活動がどうなったかについて紹介します。




フランシスコ・ザビエルの死後も日本には多くの宣教師が訪れ、布教活動が行われました。その甲斐あって、1582年には信徒数が15万人以上に上り、ザビエルらの滞在時よりも、キリスト教の知名度は上がっていきます。戦国から安土桃山時代の人口は約1200万人でしたので、非常に多いというわけではないですが。。。


とはいえ、当時は南蛮貿易が栄え始めた時期でもあり、貿易利益に目をつけて宣教師の保護を行うキリシタン大名が九州を中心に増えていきます。




これにより、宣教師たちは徐々に活気づき、そのうち道を誤ってしまうこととなります。着々と増える信徒を見て、このまま、日本をキリスト教信仰の国にできると踏んだのかもしれません。彼らは簡潔に言えば、力をつけて調子に乗ってしまったということです。その様子は、ザビエルの知人でイエズス会メンバーだった、ルイス・フロイスが残した活動記録からも読み取ることができます。というのも、彼はキリスト教に対し否定的な態度を見せた戦国大名たちを記録の中で痛烈に批判します。


そんな中、キリシタン大名である「大村純忠」が、イエズス会に長崎を寄進してしまったことで、とうとう豊臣秀吉がブチ切れます。日本の中にイエズス会の領地が生まれる、ということは、すなわち事実上、そこがイエズス会の背後にあるスペインの植民地になったことに等しいからです。





急に政治的な時代問題に発展し、加えて九州の宣教師が日本人の奴隷売買に関係しているという話が秀吉の耳に入り、もはや、彼らの存在は宗教的なものではなく、政治的なものとなってしまいます。




さらに、イエズス会宣教師だったガスパール聖職が、キリシタン大名の支援のために、フィリピンに艦隊派遣を要請し、大騒ぎになります。本来、戦教師は布教先の国の政治に介入することは禁じられていているにも関わらず、彼は軽率に政治的な意味を含む行動をとってしまったのです。このほかにも自信らの持つ軍事力を見せつけるなどの挑発的な行為が続いたため、秀吉はイエズス会を警戒し、1587年にはキリスト教の不況を禁じる「バテレン追放令」を発布しました。そもそも当時の宗教というのは、他国を植民地化する手段の一つとしても使われていた存在だから、ここまでゆるく容認されていたのです。






それでも容認されていたのが、不思議なくらいですが、それは布教を禁じるだけで信仰は禁止していませんでした。貿易の利益を優先するために、貿易とセットで行われる不況や宣教師の存在は黙認されていました。




「完全追放というよりは、あんまり調子乗るなよ」という感じです。ところが、この忠告を受けて古参の修道会は、活動を自粛したにもかかわらず、新参の修道会は調子に乗り続け、日本各地で、神社仏閣を破壊したり、仏教や神道をこき下ろすようになります。そんな中、1596年に、漂着したスペイン戦の船員が、スペインは日本を征服するために宣教師を送り込んだと話したことで、宣教師とキリスト教は日本から追い出されるになります。


実はこの船の漂着前に、ポルトガル人から「スペインは日本の征服を考えている」といった告げ口がされていました。これにより、漂着したスペイン船の積み荷はすべて没収されたため、一連のセリフは狂った船員が腹いせに入った暴言だとも考えられます。




当時ポルトガルとスペインは貿易面でライバル同士でした。そのため、ポルトガル人の密告も商売敵を陥れるためのものであった可能性が否定できない。とはいえ、宣教師らが力をつけて政治に介入していたのも、長崎が植民地状態になっていたのも事実。一連の言葉に不信感と危機感を爆発させた秀吉は1596年に再度、禁教令を発布しましたが、秀吉は完全なキリスト教弾圧はしておらず、その後、トップに立った徳川家康により侵略の危険性を考慮してキリスト教は完膚なきまでに弾圧されることとなりました。


宣教師らの国外追放はもちろんのこと、信仰すらも禁止し、キリストの絵を踏む「絵踏み」でキリスト教徒を洗い出し、逮捕処罰するようになりました。ここで完全にキリストという存在が日本から追い出されたわけです。こうして、ザビエルらが勘違いや問答を超え、苦しみつつも、緩やかに広めていったキリスト教、カトリック教会への信仰は後年に調子づいた同業者らの行動により根絶やしにされることになりました。






徐々に増えていた信徒数も国民人口と比べれば、あまり大きくはないまま、宣教活動は幕を閉じ、キリスト教は日本に普及することなく消えていきます。そもそもキリスト教と日本人の相性が悪かった上に、同業者がとどめ刺してしまいました。



ザビエルは、「よほど立派な宣教師でなければ、日本での布教は難しい」と言っていしたが、まさしくその通りでした。当時の日本人は庶民ですら問答を行い、納得しなければ入信しないという用心深さと理性を持っていたのです。切り開かれた道を、ズカズカ歩き、力を誇示するタイプの宣教師では、追い出されるのも無理はありません。