【阪本研究所】 SK laboratory 代表 Kazuyoshi Sakamoto

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【カティンの森の虐殺】第二次世界大戦中にソ連のスモレンスク近郊に位置するカティンの森で約22,000人のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者がソ連内務人民委員部に虐殺された事件。

カティンの森事件


カティンの森事件(カティンのもりじけん、ポーランド語: zbrodnia katyńska、ロシア語: Катынский расстрел)は、第二次世界大戦中にソビエト連邦のスモレンスク近郊に位置するカティンの森(ロシア語版)で約22,000人のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者が、ソビエト内務人民委員部(NKVD)によって虐殺された事件。


「カティンの森の虐殺」などとも表記する。NKVD長官ラヴレンチー・ベリヤが射殺を提案し、ソビエト共産党書記長であるヨシフ・スターリンと政治局の決定で実行された。カチン(Katyń)とも表記される。




ソ連は1939年にポーランドに侵攻し、旧ポーランド東部地域を侵略・併合。多数のポーランド人捕虜をソ連領内に連れ帰り、1940年4月頃に虐殺した。1941年6月22日からドイツ国防軍がソ連に侵攻し、スモレンスク近郊でソ連によるポーランド人虐殺現場を発見した。1943年4月にドイツは「カチンの森で1940年4月頃殺害されたと推定される4443人のポーランド将校の射殺死体を発見した」と発表した。それに対しソ連側は、ソ連に侵攻したドイツ軍が1941年8月に虐殺したと主張した。



「カティン」は現場近くの地名であり、事件現場はグニェズドヴォの方が距離的に近かったが、発音の言いやすさや覚えやすさから、ドイツがこの虐殺事件を表す名称に用いた。ソ連は在ロンドンポーランド亡命政府に同調を要求したが、逆に亡命政府は赤十字国際委員会による真相究明のための調査を要請したため、ソ連はそれを拒否し、1943年4月に亡命政府との外交関係を断絶した。



1945年11月から始まったニュルンベルク裁判でもソ連代表検事のイオナ・ニキチェンコは虐殺の責任をドイツに押し付けようとした。1946年7月1日に裁判でカティンの森事件について、ドイツによる戦争犯罪かどうか討議が行われたが、ソ連の主張は証拠不十分であるとして、裁判から除外された。



ニュルンベルク国際軍事裁判は、第二次世界大戦において連合国によって行われたドイツの戦争犯罪を裁く国際軍事裁判である。国家社会主義ドイツ労働者党の党大会開催地であるニュルンベルクで開かれた。日本の極東国際軍事裁判と並ぶ二大国際軍事裁判の一つ。






ソ連は戦後、親ソのポーランド人共産主義者らをトップに据えたポーランド人民共和国という衛星国家を作り、事件をドイツの仕業と主張し続けた。しかし、ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任すると、1987年4月に両国歴史家の合同委員会でカティンの森事件に関する合同調査が検討されることになった。合同調査後にソ連は1990年4月に事件の非を認め、公式にポーランドに謝罪した。




更には1992年10月にロシア政府は、ポーランド人2万人以上の虐殺をスターリンが署名し指令した文書を公表し、事件はソ連が実行者であることが確定した。





◆疑問

なぜ、ソ連は、ポーランド人(軍将校たち)を大量に虐殺しなければならなかったのでしょうか?



◆回答

ソ連が敵対していたイギリスが承認していたロンドン亡命政権の作った軍隊の将校達だったからです。


ソ連は第二次大戦後、ポーランドに共産主義を築きソ連の作った共産党のルブリン政権をポーランドに植え付けようとしていました。




それには資本主義陣営のイギリスが承認したロンドン亡命政権が作った軍隊を無くす必要がありました。そこでドイツと共謀してポーランドを分割し、ポーランドの将校達を虐殺しました。第二次大戦中ポーランドの首都ワルシャワにはロンドン亡命政権の部隊がありました。




そこで、ワルシャワの部隊にドイツに対して蜂起を呼び掛け(ワルシャワ蜂起)、ドイツと戦闘を開始させます。しかしながら、ソ連軍は全くこの戦いには参戦せず、援助のないワルシャワの部隊は次第にドイツ軍に圧倒される様になり、20万人近くの犠牲者が出ました。



ドイツにロンドン亡命政権の部隊を殲滅させたのです。その後ソ連軍はドイツ軍を撃破し、ソ連が作ったルブリン政権を伴って、ポーランドに共産主義を植え付けました。


つまり、カチンの森事件は、ワルシャワ蜂起と同様、ソ連が戦後、共産主義を植え付けるのに邪魔な存在を消したのです。




ワルシャワ蜂起は、第二次世界大戦後期、ナチス・ドイツ占領下のポーランドの首都ワルシャワで起こった武装蜂起。


1944年6月22日から開始されたソ連の赤軍によるバグラチオン作戦の成功によりドイツ軍の中央軍集団は壊滅、敗走を重ねた。ドイツ軍は東部占領地域に再編成・治安維持のために駐屯する部隊をかき集めて戦線の穴を埋めて防戦に努めた。


赤軍占領地域がポーランド東部一帯にまで及ぶと、ソ連はポーランドのレジスタンスに蜂起を呼びかけた。7月30日には赤軍はワルシャワから10kmの地点まで進出。占領も時間の問題と思われた。ポーランド国内軍はそれに呼応するような形で、8月1日、ドイツ軍兵力が希薄になったワルシャワで武装蜂起することを赤軍と打ち合わせた。






映画「カティンの森」




◆所感


1939年4月、ドイツは「ドイツ・ポーランド不可侵条約」を廃棄し、同年8月にドイツとソ連の間で独ソ不可侵条約が締結されました。同年9月1日にドイツがポーランドに侵攻することで第二次大戦が始まり、9月17日にソ連も同様にソ連・ポーランド不可侵条約を廃棄してポーランドの東部に侵攻しました。


独ソ不可侵条約には「秘密議定書」があり、両国はそれに従ってポーランドへの侵攻と分割占領をしました。


世界各国を共産主義にしようとするソ連とその真逆の主義のドイツが一時的に手を組んだことが不思議でややこしいポイントです。


結局、ドイツが戦争に負けたので、ソ連がやったこの事件をドイツがやったことにしようとしたが、それを止めるかわりに、この事件のことは、ソ連も米国も英国も問わないことにしました。


それが戦後、何十年も経て事実が明るみになり、書籍や映画化されたりして、世界の多くの人々は知ることなっています。


このような過去の歴史的事件を学ぶと、現在のロシアとウクライナとの戦争についても、現状だけを見て判断するのではなく違った視点から考察することができるように思えます。



独ソ不可侵条約には「秘密議定書」があり。。と簡単に書きましたが、この以前にドイツの対ポーランド交渉があり、事実はもっと複雑です。(「戦争を始めるのは誰か」P273~)







YouTube動画「カティンの森の虐殺」














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