キリスト教と豊臣秀吉、そして世界遺産に登録された長崎の大浦天主堂
豊臣秀吉のキリスト教弾圧?
「フランシスコ・ザビエルが日本に初めてキリスト教を伝えたのが室町時代の1549年。南蛮貿易の中心地だった長崎ではキリシタン文化が繁栄した。しかし豊臣秀吉からキリシタンの弾圧が始まった。長崎で起こった「二十六聖人殉教」や「島原の乱」といえば、日本史の教科書では、このようにさらっと書かれています。
世界遺産とは
まず、世界遺産とは、文化的価値のある建築物、自然景観、古代の遺跡物、これら、未来へと伝えていかなければならない人類が共有すべき「普遍的価値(Outstanding Universal Value)」を持つ物を意味します。
今世界遺産に登録された長崎の大浦天主堂は、江戸時代末期の1862年、フランス人宣教師のルイ・テオドル・ヒューレ(Louis Theodore Furet)が設計した建築物で、その文化的な価値を認めた日本政府は、昭和28年国宝に指定しました。
「南蛮貿易の中心地だった長崎ではキリシタン文化が繁栄した。しかし、豊臣秀吉からキリシタンの弾圧が始まった。」と単純に一般的に記されるのは、歪曲した歴史観を庶民に広めているような感じがします。
「長崎でキリシタン文化が繁栄したので、秀吉の時代になってからキリスト教徒は弾圧された」と解釈されそうです。これでは秀吉が悪人のような印象をうけるかもしれません。
そもそも秀吉は、どのような理由でキリスト教を弾圧することになったのか?
◆豊臣秀吉のキリスト教弾圧の理由について
それを理解するには、キリスト教宣教師の第一号、フランシスコ・ザビエルが1549年に鹿児島にやって来た頃の日本を起点として歴史を紐解く必要がありそうです。
◆ザビエルが来日した頃の日本
ポルトガル王、ジョアン三世の命を受けて、スペイン人のザビエルが来日した頃の日本は、各地に大小の群雄が割拠し、戦いが繰り返され、戦国時代と呼ばれます。
この時代を応仁の乱(1467年)から、秀吉が小田原城の後北条氏を攻め落として全国を統一し、軍事行動が終了した年(1590年)とすると、その期間は、単に、殺戮が繰り返された時代だけではなく、日本とって良い面もありました。
戦国時代の堺は、日本最大の貿易港であり、商業は言うまでもなく、多数の鍛冶屋とか鋳物師が居住し、二次のみならず、三次産業も発達していました。
そんな中、堺の商人・橘屋又三郎は、鉄砲が種子島に到来(1543年)したとの報せに同地へ赴くと、八板金兵衛(やいた きんべい)から鉄砲の製造方法を教わると、堺に戻り鉄砲の生産を開始しました。すると、他の商工業者も、又三郎を真似て鉄砲を製造しはじめました。
その結果、優に10万丁以上の銃が諸国の大名に行き渡り、日本はアジアの軍事大国と変身します。この様な時代背景があったので、白人列強諸国の武力に屈することなく、日本は独立を維持することをできました。
◆大航海時代と呼ぶ論理のすり替え
日本が戦国時代のころ、世界史は大航海時代(Great Navigation Times)と呼ばれ、ヨーロッパ人がインド航路や、アメリカ大陸を発見した時代でした。
そんな大航海時代の先駆けとなった国々は、スペインとポルトガルであり、ポルトガル人とかスペイン人は、猟師が原野で縦横無人に狩りをする如く、大海原へ乗り出すと、南北アメリカ大陸は言うに及ばず、アジア・アフリカへと向かいました。
その時、彼らは上陸した現地の住民から金銀を略奪するのは序の口でした。それよりも酷かったのは、白人がその地を植民地と決めつけて、鉱山の開発に着手しだすと、当然、労働力が必要となってきます。
その場合、原住民をあてがい、奴隷として酷使し、歯向かう者は容赦なく惨殺されました。宣教師のラス・カサスは、イエズス会に手紙を送っていますが、白人がやった数々の残虐行為を綴っていましたで、その一部を下記に転載します。
かれらは村々へ押し入り、老いも若きも、身重の女も産後間もない女もことごとく捕え、腹を引き裂き、ずたずたにした。その光景は、まるで囲いに追い込んだ子羊の群れを襲うのと変わりがなかった。彼らは、誰が一太刀で体を真二つに斬れるとか、誰が一撃のもとに首を斬り落とせるとか、内蔵を破裂させることが出来るとか言って掛けをした。
彼らは乳飲み子を母親から奪い、その子の足をつかんで頭を岩に叩き付けたりした。また、ある者たちは冷酷な微笑みを浮かべて、幼児を背後から川に突き落とし、水中に落ちる音を聞いて、さあ、泳いでみろよと叫んだ。彼らは、ほかの幼児を母親もろともに突き殺したりした。
こうして、彼らはその場に居合わせた人たち全員にそのような酷い仕打ちを加えた。
さらに、かれらは漸く足が地に着くぐらいの大きな絞首台を作り、こともあろうに、われらが救世主と12人の使徒を称え崇めるためだといって、13人づつその絞首台に吊るし、その下に薪をおいて火をつけた。
こうして、彼らはインディオを生きたまま火あぶりにした。インディオの体中に乾いた藁を縛りつけ、それに火をつけて彼らを焼き殺したキリスト教徒もいた。そのほかのインディオに対しては、キリスト教徒は殺さずにおこうと考へ、彼らの両手を斬りつけた。
そうして、辛うじて両手が腕にくっついているインディオたちに向かって、彼らは手紙を持っていけと命じた。つまり、山へ逃げ込んだインディオたちの所へ見せしめに行かせたのである。ふつう、インディオたちの領主や貴族を次のような手口で殺した。地中に打ち込んだ4本の棒の上に、細長い棒で作った鉄灸のようなものを載せ、それに彼らを縛りつけ、その下でとろ火を焚いた。すると、領主たちは、その残虐な拷問に耐えかねて悲鳴をあげ、絶望し、じわじわと殺された。
一度、わたしは四、五人の領主が火あぶりされているのを見た(ほかにも同じような仕掛けが二、三組あり、そこでもインディオたちが火あぶりされていたのを記憶している。)彼らは非常に大きな悲鳴をあげ、司令官を悩ませた。
そのためか、安眠を妨害されたためか、いずれにせよ、司令官は絞首刑にするように命じた。ところが彼らを火あぶりにしていた死刑執行人(私は彼の名前を知っているし、かって、セピーリャで彼の家族と知り合ったことがある)よりはるかに邪悪な警吏は絞首刑をよしとせず、大声をたてさせないように、彼らの口の中に棒をねじ込み火をつけた。結局、インディオたちは警吏の望みどおり、じわじわと焼きころされてしまった。幸運にも、生き残った男は金採掘の鉱山へ、女は農園へ奴隷として送り込まれ、酷使される運命がまっていた。
「キリスト教徒たちは3アローバ(1アローバは約11キロ、なので33キロに相当)か4アローバもする重い荷物をインディオに背負わせ、100レグラ(1レグラは約、5.6キロメートル、なので560キロに相当)、200レグラを歩かせた。インディオの背中や肩は、重い荷物ですりむけ、まるで瀕死の獣のようだったが、スペイン人は、鞭や、棒や、平手や拳骨で、容赦なく彼らをいためつけた。彼らはインディオを野獣として扱った」と。
◆参考資料
書名 :インディアスの破壊についての簡潔な報告
著者 :ラス・カサス
出版社:岩波文庫
◆植民地獲得競争
この様なことが起こっていた時代、すなわち15世紀半ばから17世紀半ばまで続いた期間を「大航海時代」と呼ばれますが、これほど欺瞞に満ち溢れた時代表現はないかもしれません。
実際、「大航海時代」と言えば、未知の世界へ冒険に出かけるようなロマンティックな幻想を抱かされ、聞こえは良いでしょう。しかしながら、その内実と言えば、白人による略奪と虐殺が繰り返された挙句、有色人種が居住する世界中の地域は植民地化されはじめ、15世紀とは、白人諸国による、植民地獲得競争、その嚆矢の世紀と呼ぶのがいいのかしれません。
別の視点から歴史を考察すれば、15世紀の半ばから、20世紀に掛けて、西欧諸国は産業革命を成した結果、大いに発展し、且つ、繁栄を享受しました。その発展と繁栄の原資となっていたのは、有色人種から掠奪した富と労働力=奴隷であったことを忘れてはならないでしょう。
したがって、「大航海時代」と言う時代は、白人がなした筆舌に尽くしがたい非人道的な暗い過去があり、その陰には、有色人種の苦痛と苦難の歴史がありました。その事実を語らずに、「大航海時代」と呼ぶのは、白人にとって都合の悪い過去を、詭弁、論理のすり替えによって覆い隠しているに過ぎず、白人による「侵略と略奪と殺戮の時代」と呼ぶべきでしょう。
◆戦国時代にキリスト教を布教できた理由
世界は白人が主導する「侵略と略奪と虐殺の時代」であり、日本は戦国時代でした。
そんな中、日本にやってきた外国人宣教師は、身の安全を守るために苦心しました。そのことは、宣教師の一人、ルイス・フロイス(Luís Fróis)が著した「信長とフロイス」、この書物から汲み取れます。
このルイス・フロイスは1563年に長崎の横瀬浦に到着すると、その地で日本語を学んだ後、1564年に京都に向かった。
しかし、保護者として頼っていた将軍の足利義輝は「永禄の変」(1565年)で殺害され、代って権力を握った三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)は、攘夷的(Xenophobia)な日本人だった。そのことを知ったフロイスは、三好三人衆からの迫害を避けようと、摂津国(現在の堺)へ避難した。
それから四年後の1569年、今度は信長の援助で、室町幕府の最後の将軍となった足利義明と共に上洛すると、建築中の二条城でルイス・フロイスは初めて信長と対面した。その時、フロイスがヨーロッパ文明について説明すると、大いなる感銘を受けたのが信長だった。
その後、イエズス会によって神学校(セミナリオ Seminario)の建設が計画されたものの、安全を危惧したルイス・フロイスは、信長の庇護が行き届く土地を求めると、信長は、安土城(当時の信長さんの住城、現在の近江八幡市安土町)に隣接する土地をイエズス会に提供した。
このことは、信長は異宗教の布教を認めただけではなく、布教にあたる宣教師の安全を約束し、且つ、土地まで提供した事実。
これは何を意味するかと言えば、現在の国際社会では、政治的・宗教的に迫害を受けた人々は、本国を脱出して他国に逃れ、亡命先の国家に庇護を求めるのは、国際法上の権利として認められています。
つまり、庇護を求めたフロイスに対し信長がとった処置は、国際的な感覚に満ち溢れていたということです。
さらに、ルイス・フロイスは、信長について次のごとく記しています。
「彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髯は少なくはなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的に修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。
彼は自邸においてはきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念にしあげ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賤な家来とも親しく話をした」と。
また、信長がキリスト教徒を庇護することになった理由は他にもありました。
平安時代の末期になると、僧侶たちは、仏法擁護の名の下に武装すると、自ら「僧兵」をと呼び、一種の独立した勢力として存在していました。これは、天下を統一して租税収入を増やそうと考えていた信長にすれば、僧兵とは「目の上のたん瘤」。
おまけに僧兵集団は、僧としての道から離れ、世俗的な生活を送っていた。そのこと苦々しく思っていた信長は、「信長公記」の中で僧兵について次の如く語っています。
「坊主でありながら酒肉を喰らい、遊び女を抱く放蕩三昧に仏罰が下らないのなら、仏像や経典はただの木切れ紙くずに過ぎぬ。天が見過ごすのなら我が仏罰を加える」と。
信長は腐敗した仏教勢力に対して、道徳的な寛容性を持ち合わさなかったので「比叡山の焼き討ち」(1571年)をやったと言えるかもしれません。
しかしながら、一般的に、信長に限らず、日本人は古来より宗教に対して寛容性を持っていた人種だったので、宣教師はキリスト教を日本で布教することが出来たとも考えれます。
現在の日本は、宗教の教義をひろめ、儀式や行事を行い、信者を教化育成することを目的とした礼拝の施設を備へた団体を「宗教団体」と定義しています。
平成28年に文化庁が公表した統計によると、宗教団体の総数は日本国内に18万1810もあり、これは、国民687人につき一つの宗教団体がある計算となります。これこそ、日本人は、どんな宗教であっても、排斥することなく、おおらかにに受け入れるることができる気質や性質を持っている証と言えます。
日本人がキリスト様の誕生を祝い、大晦日には除夜の鐘を聴き、翌日には神社へ初詣することがあらゆる宗教に対して寛容性を表していると思います。
書名:信長とフロイス
著者 :ルイス・フロイス
出版社:中公文庫
◆来日した宣教師について
戦国時代の日本にやってきた主な宣教師の名を挙げると、スペイン人でイエズス会創設メンバーのフランシスコ・ザビエル、彼の後を継いだスペイン人のコスメ・デ・トーレス、信長におおいなる影響を与えたポルトガル人のルイス・フロイス、京都で布教していたイタリヤ人のグネッキ・オルガンティノがいました。
これら4人の経歴について調べてみると、共通点を見出すことができました。
◆マラーノ
この4人は全員、マラーノでした。このマラーノ(marrano)とは、スペイン語で「豚」を意味し、もしくは、汚らしい、卑下すべき人物(Despicable Person)の意味も含んでいて、それが転じてキリスト教に改宗したユダヤ人をマラーノと呼ばれました。
ユダヤ人にすれば、マラーノと呼ばれるのは不本意でしたが、ヨーロッパの国々では、ユダヤ人に対して偏見と差別に満ち溢れていて、そんな環境の中でユダヤ人が生き抜くには、これまで信仰の対象であったユダヤ教を破棄し、改宗してキリスト教の宣教師とならざるを得なかった。
◆イエズス会
日本にやってきた初期の宣教師は、全員はマラーノであり、イエズス会に属していた。このイエズス会は、布教と並行して商売で稼ぐよう宣教師に命じた。従って、宣教師と言っても根はユダヤ人、銭儲けには抜け目なく、何処へいくにも必ず商人も同行させました。
その時に商人たちが日本に持ちこんだ品目には、火縄銃、大砲、硝石、生糸、絹、地球儀、眼鏡、パンがありました。
◆硝石
これらの商品の中で、戦国大名が最も欲しがったのは硝石でした。
火薬の原料となる硝石は、大名にとって戦のための絶対的な必需品でしたが、当時、日本国内で硝石は産出されていなかったので、硝石と共にやってくる宣教師に大名が近づく素地は十分あった。
そんな事情にかこつけて、「改宗すれば、硝石を手にいれる便宜を計ってやる」と宣教師は大名に告げたのでしょう。
そうすることによって、儲けることを指示したイエズス会の主旨に合致し、大名さえ改宗させれば、大名は領民を強制的に改宗させることが出来ます。
そんな思惑を抱いたのがイエズス会の宣教師であり、大名を対象として布教し始めたました。
◆キリシタン大名
宣教師が大名を対象にして布教を、キリシタン大名の第一号となったのは始めて大村純忠(おおむらすみただ)。この大名がキリシタンとなったきっかけは、ある事件と関連します。
1561年、平戸港でポルトガル人と日本人商人の間で争いが起こり、死傷者を出した結果、平戸からポルトガル船が出港した事件を「宮ノ前事件」と言います。
この事件が勃発すると、純忠は、藩の財政を改善するには絶好の機会。領内の横瀬浦を開港して、入港してくるポルトガル船から碇泊料(Demurrage)を徴収することにしました。
それから2年後、純忠は洗礼をうけて「バルトロメオ」と名乗り、教会も建設したのは結構だが、狂信的とも言える宗教活動を純忠はやり出しました。
純忠が最初にやったのは、先祖の墓を掘り返して遺棄すること。また、神主や僧侶をキリシタンに改宗するようにと強制しました。拒否した者は惨殺し、神社仏閣を焼き払い、貴重な仏像や経典までをも徹底的に破壊しました。
さらに、仏教徒の居住を禁止する令を出すと、領民2万人がキリシタンに改宗しました。改宗を拒んだ者は、硝石の支払い代金として、ポルトガル人の奴隷商人に売り飛ばされました。
純忠と似たようなリシタン大名は他にたくさんいました。中でも、豊後国(現在の大分県)の大友宗麟(おおとも そうりん)は、最悪のキリシタン大名かもしれません。
宗麟は、現在の福岡県新宮町、久山町、福岡市東区にまたがる立花山城(たちばな さんじょう)の帰属を巡って毛利元就と戦っていました。その最中、火薬の原料である「硝石」を余程欲しかった事実を裏づける手紙が現在でも松浦資料博物館(長崎県平戸市鏡川町12)に保管されています。
宗麟が宣教師に送った手紙によれば、「自分はキリスト教を保護する者ある。毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破るには、自分には良質の硝石を、毛利氏には硝石を売らないでくれ」と記されています。
◆敵に塩を送る
「敵に塩を送る」と言う言葉があります。この言葉の由来は、1553年から64 年にかけて、11年間にわたり、武田信玄と上杉謙信は5回も戦ったが、信玄は今川義元の「塩留め」に会い、塩がないので信玄と領民が困っていると知った謙信は、塩を送って、敵を助けたことによるものに由来します。
このように、敵が困っていたら、助けようとするのが武士であり、今も語り継がれています。
他方、宗麟の手紙から読み取れるのは、「自分はキリスト教を護ります、敵は弾圧しますので、敵には硝石を売らず、自分だけに売ってくれ」と宣教師に媚びつつ、硝石を手にいれようとした宗麟の浅ましい性根であり、謙信と真逆のことをやった人物。
それにしても、宗麟からの手紙を読んだ宣教師は、日本人の中にもマラーノのような人間がいて、喜色満面だったかもしれません。
さらに、宗麟だけではなく、大村純忠や有馬義貞、これらのキリシタン大名は、硝石の支払い代金として、硝石一樽につき50人の日本人を宛がっていました。
この商売、日本人奴隷1人を外地で売ると、100倍以上の利益を得ることができた美味しいビジネスであり、その利益を山分けしていたのが宣教師と商人たちでした。
そのことをキリシタン大名たちは知っていたのでしょうか? 想像するしかないが、
奴隷貿易のルートの確立に寄与していたのがキリシタン大名達であって、彼らは、自己の目的達成のためには、手段を選ばなかったのでしょう。
◆日本人奴隷
キリシタン大名によって売り払われた日本人奴隷は、異郷でどんな境遇に置かれていたのか? 徳富蘇峰の「近世日本国民史」から引用します。
天正10年(1852年)、キリシタン大名の大村純忠、大友宗麟、有馬義貞は、13歳から14歳の少年たち4人を選ぶと、少年たちを天正遺欧少年使節(てんしょう けんおう しょうねんしせつ)と銘うって、彼らの名代としてローマへ送り出した。その4人の少年が道中で見聞したことをキリシタン大名への報告書の中で次の如く記しています。
「行く先々で日本女性がどこまで行っても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や神父が硝石と交換し、インドやアフリカまで売っている」と。と言うことは、少年使節団をおくりだしたキリシタン大名たちは、報告書を受け取っていたので、奴隷となった日本人は、異郷の地で塗炭の苦しみに喘いでいたのを知っていた。
そう判断すると、第二次世界大戦中、ナチスに協力してユダヤ人を売り飛ばし、そのお金を元手にして相場で膨大な富を築き、世界的な著名人となったユダヤ人George Sorosを想いおこし、キリシタン大名とは、本質的にGeorge Sorosがやったことと変わりなく、和製マラーノと呼べるかもしれません。
◆日本人奴隷の解放に尽くした秀吉
秀吉は、九州を平定すると、日本人が奴隷として海外に売り飛ばされていることを熟知していて、宣教師を呼び寄せると次のごとく語った。
予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。
よって、汝、伴天連(=キリスト教の宣教師)は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」と。
つまり、宣教師に「日本人奴隷の解放」を依頼したが、宣教師からは何の回答もなかった。それどころが、秀吉の依頼は馬事東風とばかり、日本人をキリシタンに改宗させようと精をだしたのが宣教師。
◆「天正十五年六月十八日付覚」と「吉利支丹伴天連追放令」
そんな宣教師の傲慢な態度に、堪忍袋の緒が切れた秀吉は「天正十五年六月十八日付覚」と、翌日には「吉利支丹伴天連追放令」の文書を長崎でポルトガル人宣教師に手渡しました。
「秀吉の対キリスト教政策を時系列に沿って、事実(Facts)だけを簡素に箇条書きすします。
a) 天正14年(1586年)、秀吉は、イエズス会の宣教師ガスパール・コエリョを大阪城で接見すると「布教許可証」を与えた。
b) 天正14年(1586年)日本人奴隷の解放を宣教師に依頼したが、何の回答もなかった。
c) その翌年の天正15年(1587年)、長崎がイエズス会の所有となっている事に驚いた秀吉さんは、18日には「天正十五年六月十八日付覚」を、同年の翌日には「吉利支丹伴天連追放令」をポルトガル人宣教師に手渡した。
「天正十五年六月十八日付覚」
ここでいう、「天正十五年六月十八日付覚」、その原文の現代文がウィキペディア にあったので転載します。
1. (自らが)キリスト教徒であることは、その者の思い次第であるべきである。
2. (大名が)国郡の領地を扶持として治めさせているが、その領地内の寺や百姓などたちにその気がなかったのに、大名がキリスト教徒になることを強いるのは、道理が通らず、けしからんことだ。
3. 大名がその国郡を治めることについて、大名に命じているのは一時的なことなので、大名が交代することはあっても、百姓は交代するものではないので、道理が通らないことはなにかしらあることで、大名がけしからんことを言い出せば、(百姓を)その意のままにできてしまう。
4. (知行地が)200町、3000貫以上の大名は、キリスト教徒になるには、朝廷や幕府に報告をし、その思し召しの通りにできることとする。
5. 知行地がこれより少ない者は、八宗九宗などのような宗教上のことだから、その本人の思い次第であってよい。
備考:八宗九宗(はっしゅう くしゅう)八宗とは、大乗仏教の宗旨・宗派を意味し、それに禅宗を加えて九宗とした。
6. キリスト教徒については、一向宗以上に示し合わせることがあると、そう聞いているのだが、一向宗はその国郡を寺領(寺内町)に置いて、大名への年貢を納めないだけでなく、加賀国の全てを一向宗にしてしまい、大名の富樫氏を追放し、一向宗の僧侶に治めることを命じ、そればかりかさせ越前国までも取ろうとし、治天下の障害になっていることは、もう隠しようがない事実。
7. 本願寺の僧侶には、天満の地に寺を置く(=天満本願寺)ことを許しているが、この(一向宗の)寺領のようなものは以前から許したことはない。
8. 国郡や領地をもつ大名が、その家臣達をキリスト教徒にさせようとすることは、本願寺の宗徒が寺領を置くことよりもありえないことであるから、治天下の障害となるので、その常識がわからないような者には処罰ができることとする。
9. 大名などよりも下の身分の者が思いのままにキリスト教徒になることについて
は八宗九宗と同じで問題にならない。
10. 中国、南蛮、朝鮮半島に日本人を売ることはけしからんことである。そこで、日本では人の売買を禁止する。
11. 牛や馬を売買して食べることは、これもまたけしからんことである。
ことごとくこれらの条文で固く禁止し、もし違犯する連中があればすぐに厳罰に処する。
以上が「天正十五年六月十八日付覚」の文。
◆「吉利支丹伴天連追放令」(キリシタン・バテレンついほうれい)
さらに、翌日の6月19日には、「吉利支丹伴天連追放令」(キリシタン・バテレンついほうれい)がポルトガル人宣教師に手渡された。原文の現代訳は、
1. 日本は自らの神々によって護られている国なのだから、キリスト教の国から邪法を授けることは、まったく、もってやってはけしからんことである。
2. (大名が)その土地の人間を教えに近づけて信者にし、寺社を壊させるなど聞いたことがない。諸国の大名が従っているのは一時的なことなのだ。天下からの法律に従ってそのさまざまなことにその意味を実現すべきなのに、いいかげんな態度でそれをしないのはけしからんことである。
3. キリスト教の国の人がその教えにより、信者をどんどん増やそうと考えるのは、前に書いたとおりの日本中の仏法を破ることになる、ということは忘れてはならないから、日本にキリスト教徒を置いておくことはできないので、今日から20日間で支度してキリスト教の国に帰りなさい。キリスト教徒であるのに自分は違うと言い張るのはけしからんことである。
4. 貿易船は商売をしにきているのだから、これとは別のことなので、今後も商売を続けること。
5. いまから後は、国法を妨げるのでなければ、商人でなくとも、いつでもキリスト教徒の国から往復するのは問題ないので、それは許可する。
以上が天正15年(1587年)6月19日付けの文。
上記に記した二通の文書だけではなく、秀吉は口頭で下記の事柄を臣下に命じた。
・この機に乗じて宣教師に危害を加えた者は処罰する。
・キリスト教へ改宗せよと強制するのは禁じるが、個人が自分の意志で信仰するのは自由。
・大名がキリスト教に改宗したければ、余(秀吉)の許可を必要とする。
つまり、「天正十五年六月十八日付覚」の中に、「(自らが)キリスト教徒であることは、その者の思い次第であるべきである。」とか、「下の身分の者が思いのままにキリスト教徒になることについては八宗九宗と同じで問題にならない」と明言しています。
このようなことからそ秀吉の宗教に対する考え方について、次のことが言えます。
◆自由(Freedom)について
自由には二種類あって、他人と遊んだり、喋ったりする「外的自由」と、好きなことを思ったり、考えたりする「内面の自由=良心の自由」(Freedom of Conscience)があります。
近代社会の人間にとって、最も大事な自由は、「内面の自由=良心の自由」であり、17世紀にアメリカへ渡った清教徒の動機は、「信仰の自由」に由来していることからでも理解でます。
したがって、「キリスト教徒であることは、その者の思い次第である」と明文化した秀吉の意図は、改宗を強制したり、布教活動をするなと、宣教師の「外的自由」を制限しただけで、「内面の自由=良心の自由」を容認した秀吉は、人権思想の何たるかを認識していた証と言えます。
さらに秀吉は「天正十五年六月十八日付覚」と「吉利支丹伴天連追放令」を布告したものの、その法令を臣下が濫用することを禁じ、宣教師を保護しようとした事実があり、この法令が発布されたからと言って、誰一人、処刑されませんでした。
また、文書をイエズス会に文書を突き付けた年、天正15年(1587年)には、大きな出来事がありました。
それは、天正14年(1586年)の7月から翌年の4月まで続いた戦いで、九州の雄藩、島津藩を屈服させて九州平定に成功し、20万の大軍を率いていて、その軍事力を背景に、大村純忠がイエズス会に寄進した長崎の土地を取り戻し天領としたことです。
◆サン・フェリぺ号事件
天正15年(1587年)に「吉利支丹伴天連追放令」を布告してから9年が経過した文禄5年(1596年)、土佐の浦戸にスペインの貨物船、サン・フェリぺ号が漂着しました。
その折、秀吉の五奉行の一人、増田長盛は乗組員の取り調べを行った。すると、水先案内人を務めていた船員は、世界地図を長盛に示し、スペイン領土の広さを誇示したので、「何故にスペイン領は広いのか?」と長盛が質すと、「スペイン国王は、まず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると軍隊を送り、信者に内応させて、伝道の地を征服するので、世界中にわたって領土を占領できたのだ」と告げました。
増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣政権五奉行。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。
◆26聖人処刑
サン・フェリぺ号事件からの報告を増田長盛から受けて、「十字架と鉄砲」を担いでやってきた白人は、収奪、掠奪は当たり前、殺戮なんかの残虐無道な行為を非白人諸国で繰り広げていたことを熟知していた秀吉は怒り心頭。
そんな秀吉の考え方を無視し、イエズス会の後に来たフランシスコ会の宣教師などは、秀吉の依頼を無視しただけではなく、挑発的な布教活動を続けました。
そこで秀吉は、京都奉行の石田三成に命じて、キリスト教徒全員を捕縛し、鼻と両耳を削いだ上で市中引き回しの上、処刑するよう命じた。その命を受けた三成はキリシタン宣教師と信者を探し出し出すように部下に命じたところ、4000人以上の名が記された名簿が提出されました。
石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。
豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる[1]。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。
その名簿の中には、有力大名である高山右近も含まれていることを知って驚いた三成は、捕縛すべきキリシタン教徒の数を削ろうと、宣教師には20日間に国外に出るよう申し付けたり、日本人キリシタンには改宗を勧めました。
ところが、フランシスコ会の宣教師7名、信徒14名、イエズス会の関係者3名、合計24名は三成の申し入れを拒否したので捕縛された。その時、捕縛したキリシタン教徒の鼻と耳を削ぐようにと秀吉から命じられていたが、三成は左耳だけを削ぐように刑吏に命じ、24名は、市中引き回しの上、長崎に送られることになりました。その道中、キリスト教徒のペトロ助四郎、フランシスコ吉、これらの2名も捕縛され、計26人が長崎で処刑されました。
◆偉大な秀吉
キリシタンの宣教は、西欧諸国の植民地政策と連動していました。ポルトガル、スペインのようなカトリック教国は、大航海時代の潮流に乗って、世界帝国を築こうとしていた最中であり、アジアに乗り出したカトリックの宣教師たちは、単なる布教だけではなく、経済的利益の獲得を主目的にしていたと言えます。
例えば、ザビエル渡来の三年後、ルイス・デ・アルメイダが長崎に上陸したましたが、マラーノの彼は、豊後で病院を立てたり、医薬品を宗麟に与えた記録が残っているので、さすが、キリストさんの宣教師、素晴らしいと思うかもしれませんが、宗麟と組んで奴隷貿易によって大儲けし、その利益の一部を地元に還元しただけであって、宣教師と言う名を騙った悪徳商人(=ユダヤ人)に過ぎなかったでしょう。
さらに言うと、1586年(天正14年)、ガスパール・コエリョ(Gaspar Coelho)は、日本の法に従うとの条件のもと、日本での布教を秀吉から認められたが、キリシタン大名を糾合して、秀吉に敵対する勢力を作り上げて、日本を植民地とする準備をしていた記録が残っています。
◆歴史にIFは禁物
歴史にIFは禁物。しかしながら、ガスパール・コエリョ(Gaspar Coelho)のような宣教師を日本国内にのさばらせて置いて、キリシタン大名が彼に呼応し、連中が日本を乗っ取ったなら、我が国古来からの神道と仏教は根絶されて、我々日本人は、強制的に洗礼を受けさせられ、ガルシアとかゴンザレスと、典型的なスペイン人の名を呼び合う憂目を味わうことになっていたかもしれません。
これは決して妄想ではない、フイリピンの歴史をたどれば一目瞭然です。国民の85%がカソリック教徒に改宗し、国名までもがスペイン皇太子フェリペの名に由来している事実があるからです。
それでは、南蛮貿易の中心地だった長崎では、キリシタン文化が繁栄したのは歴史の事実と認められます。しかしながら「キリシタンの弾圧が秀吉のころから始まった。」と単純に記されているのが多い中、上記長文を読んで頂いた方には感謝します。
◆豊国神社
【豊国神社】(ほうこくじんじゃ)大阪市中央区大阪城
【豊国神社】(ほうこくじんじゃ)は、大阪府大阪市中央区大阪城に鎮座する神社。京都府京都市東山区に鎮座する豊国神社の大阪別社として創建された。のちに京都・豊国神社から独立して豊國神社に改称。京都・豊国神
大阪城には豊国神社があり、英文では次の如く記されています。
Hokoku Shrine was erected under the edict of Emperor Meiji and is dedicated to those three great benefactors of the Japanese nation, Toyotomi Hideyoshi, Toyotomi Hideyori, and Toyotomi Hidenaga
和豊国神社は、明治天皇の勅令に基づいて建てられ、日本国民に恩恵を施した三人、豊臣秀吉、豊臣秀頼と豊臣秀長が祀られている。
◆所感
「秀吉のキリスト教弾圧は、九州のキリシタン大名が、秀吉の許可を得ずに勝手に長崎を手渡そうとしていたことなどから、日本全体が長崎のようにイエズス会や諸外国に植民地化されることを恐れ、宣教師を追放した。」
と言われますが、自分でいろいろ調べてみると本当の理由はそんな簡単なものではなさそうです。
映画「沈黙」の1シーンですが、心の中の信仰を弾圧することは不可能かもしれないとも考えてしまいます。