【阪本研究所】 SK laboratory 代表 Kazuyoshi Sakamoto

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【追加】原題:FREEDOM BETRAYED『裏切られた自由』:Herbert Hoover’s Secret History of the Second World War and Its Aftermath)蒋介石と日本

原題:FREEDOM BETRAYED『裏切られた自由』(訳者 渡辺惣樹):Herbert Hoover’s Secret History of the Second World War and Its Aftermath)を読むにあたって、P282~359「第2編 中国の衰亡」があります。ここで「蒋介石」がキーワードになります。


日本と微妙な関係であった「蒋介石」のことを知って上で、このP282からの「中国の衰亡」を読むとより理解が深まります。




蒋介石とは?

蔣 介石(蒋 介石、しょう かいせき、1887年10月31日 - 1975年4月5日)は、中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統、中国国民党永久総裁。国民革命軍・中華民国国軍における最終階級は特級上将(大元帥に相当)。浙江省寧波府奉化県出身。日本・中華人民共和国では蔣介石の呼び名で知られているが、中華民国(台湾)では蔣中正(しょう ちゅうせい)の名称が一般的。




孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となる。第二次世界大戦では同国を四大国の一角にさせ、連合国中国戦区最高統帥だった。しかし、戦後の国共内戦で毛沢東率いる中国共産党に敗れて1949年に台湾へ移り、1975年に死去するまで大陸支配を回復することなく同国の国家元首の地位にあった。


Wikipediaでは、上記以外にも蒋介石については非常に多く記載されています。





そこで、蒋介石の概略を下記にまとめます。



蒋介石と日本、その関係とは?



中華民国大統領の孫文が設立した「中華民国陸軍養成学校(黄埔軍官学校)」の校長先生だった蒋介石は、かつて日本陸軍に勤務していたこともりありました。




黄埔軍官学校(こうほぐんかんがっこう)は中華民国大総統の孫文が1924年に広州に設立した中華民国陸軍の士官養成学校である。黄埔軍官学校の設立は孫文の主要な顧問となっていた、コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンの進言によるもの。当時は第一次国共合作が行われていたため、中国国民党だけでなく、中国共産党の軍人も入校した。後、台湾の陸軍軍官学校として再建されています。




当時の清王朝は知力を振り絞って国民の権利を守るどころか、自分たちの保身と利益のために切り崩し続け、自分たちの権利をなんとしても死守しようとしていました。




同国人でありながら中国人グループ同士の対立は続き、新天地中国獲得で賄おうと狙うヨーロッパ列強の思惑が絡まり、中国は人心も領土も蝕まれざるを得ませんでした。


中国の富裕層は、このような治安の悪い中国から跡継ぎの子弟を脱出させ、比較的安全な日本や欧米に留学させることがブームとなっていました。





そこで学識を高めた優秀な中国人エリート候補生たちは、国外から見た中国の蝕まれ方に悲しみと怒りを覚え、「そんな社会など潰せばいい」と革命思想へと次々に走りました。


当時の彼らの怒りを正当化する精神的支柱となっていたのが、「共産主義」という新たな思想でした。


1919年に陳望道が中国語に翻訳したマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』によって、母国語(中国語)で誰もが理解できる「共産主義」の鮮烈な世界の見え方は、政治的混乱が収まる気配のない政府に嫌気がさした中国の人々にとって、光のように深く浸透していきました。



日本に留学中だった蒋介石は、1905年に東京で結成された「中国同盟会」という共産主義政治結社にいました。帰国後は清朝を倒すために繰り返し行われた武装蜂起に参加していたのです。



国民党と中国共産党はなぜ争った?


荒れる中国政界を利用するように、地方では「軍閥」と呼ばれる武力集団が勢力を高めていました。




1911年に「辛亥革命」が起こり、1912年に中華民国が建国されます。孫文の側近であった蒋介石は、その軍事能力を買われて中華民国を確かな国として纏め上げる軍を育成し、華僑の献金で多くの武器を買い集めました。



「辛亥革命」
1911年夏、長期休暇を取ると上海に帰国して陳其美と秘密裏に情報交換や計画の企画立案を行う。10月頭に帰隊するが、それから間もない10月10日、辛亥革命が勃発する。陳其美より帰国要請を受けた蔣介石は張群、陳星枢とともに師団長の長岡外史中将に休暇帰国を申し出るが叶わず、飛松連隊長に48時間の休暇を申し出ると、そのまま上海航路の日華連絡船長崎丸で帰国して革命に参加する。10月30日に上海に着いた蔣は、その後陳其美と行動を共にする。陳は蔣に信頼を寄せており、杭州方面の杭州に駐在する新軍第二十一鎮(中国語版)第八十一標・第八十二標の蹶起支援のため急遽漁民など義勇兵120名からなる決死隊に任じた。蔣介石は杭州制圧のために軍勢を率いて向かったが、これが初陣ということで死を覚悟し、このとき実家の母、妻、そして長男に宛てて遺書を書き残している。11月3日から攻略戦を開始し、第三営とともに撫台衙門を包囲、巡撫増韞を捕虜とした。翌日午後には杭州を陥落せしめ、浙江省の独立を宣言した。周承菼は立憲派であった咨議局議長の湯寿潜を都督に選出したが、蔣は王金発とともにこれに反対意見を表明。同じく蜂起に成功し上海都督に就任した陳其美は、革命勢力の内紛を抑えるため蔣を上海に引き戻し、滬軍第一師副師長兼第一団団長の役割を与えた。のち第一団は滬軍第二師(長:黄郛)第五団へと改編される。蔣は陳、黄郛の厚い信頼を得て、二人と義兄弟の契りを結ぶに至った。


11月22日から南京攻略戦が開始された。陳其美が陣頭指揮を執ったが、蔣介石は上海防衛を任されたため、攻略戦には参加していない。この頃の蔣介石は陳其美の護衛役を自負しており、陳の政敵である陶成章を暗殺するなどしている。


1912年1月1日、南京において中華民国の建国が宣言され、孫文が臨時大総統の地位に就いた。2月12日には宣統帝が退位し、清朝が崩壊した。同時に、孫文は臨時大総統の地位を北洋軍閥の袁世凱に譲るなど、政局は大きく転換した。この時期の蔣介石は目立った行動を取っていないが、同年3月から第5団の職を張群に任せると12月まで日本に赴き、東京の代々木山谷で発行所「軍声社」を設置、中国同盟会の会員や在日華僑向けの軍事雑誌「軍声」を発行した。また、蔣介石自らも記事を寄稿しているが、その中で「軍政統一問題」を取り上げていた。蔣介石は、軍事と政治を統一するにはそれにふさわしい指導者が必要で、その指導者を持つことができるか否かが各民族に課せられた課題である、と説いていたのである。(Wikipediaより)





日本と中国の関係は、1915年の「二十一か条の要求」にて欧米列強と同じく中国植民地化方針を隠そうともしない日本の動きによって悪化しました。




1919年に孫文が結党した国民党と、ソ連と共産党が「第一次国共合作」を結んで軍閥退治を先導してきたものの、孫文が1925年に死去した後、国民党と共産党が戦闘状態(国共内戦)となりました。






国共合作(こっきょうがっさく)とは、1924年から1927年と、1937年から1945年の2度に亘り中国国民党と中国共産党の間に結ばれた協力関係のこと。「合作」は中国語で協力関係を意味します。





国民党の内部にまで食い込んできた共産党勢力を駆逐するため、蒋介石は共産党と決別し、まずは国内を制圧するために満州国をさておき、共産党を延安まで12500kmも退却させる猛攻撃を進めました。しかし、「西安事件」よって蒋介石は共産党に捕まります。



「安内攘外政策」つまり、「国民党と共産党による国内の覇権争いを収束させた後、日本を叩く」という政策を維持するため、蒋介石は和睦を拒絶しましたが、中国共産党の旧知・周恩来が説得にやってきたため、その要求を飲まざるを得なくなったようです。



毛沢東は忌々しい蒋介石を殺害しようとしましたが、ソヴィエト連邦のスターリンから「殺してはいけない」と言われていたため、再び「第二次国共合作」が整い、国民党と共産党の力を合わせ、日本関東軍と対決する準備が整いました。






日本敗戦後の中華民国の内戦、そして台湾


日本の傀儡国である満州国の独立性が国際連盟にて認められなかった日本は、国際連盟を脱退しました。


1937年「盧溝橋事件」が勃発し、日中戦争、そして太平洋戦争へと突入します。




敗戦後、昭和天皇の玉音放送の1時間前に、蒋介石もまた同じくラジオ演説を行っていました。





その内容は


「日本国民に報復や屈辱を与えず、軍に踊らされていた日本国民に同情しよう」「うらみをうらみで返す事は、我々の目的ではない」という、敵国だった日本に対する友情に溢れたものでした。







しかしながら、国民党と共産党が結びつくきっかけとなった共通の敵「日本軍」が消滅したことで、双方の亀裂は修復しがたいものとなってしまいました。




1848年、蒋介石は中華民国総統の座についたものの、農民たちの「自分の土地を手に入れる」という悲願を集約して叩きつけて来る共産党人民解放軍の突破力は防ぎきれるものでははりませんでした。



そして、共産党によって主要都市を次々に奪われ、戦いは国民党にとって不利になりました。


1949年、人民解放軍によってついに南京を落とされた国民党は中国を追い出され、



蒋介石は台湾へと逃れます。







以下、原題:FREEDOM BETRAYED『裏切られた自由』では、台湾のことについては詳しく書かれていませんが、その後は。。。



蒋介石と優しい国、台湾


蒋介石らが渡った台湾では、「中華民国臨時政府」が立ち上げられ、台北がその首都とされました。もちろん中国の毛沢東は見逃すつもりはなく、軍事侵攻を画策していたのですが、朝鮮半島にて有事が勃発しました。




1950年に始まった朝鮮戦争に介入するために、中華人民共和国政府は軍を朝鮮に向けたので台湾は難を逃れることができました。





蒋介石は、アメリカの支援を受けて再び中国に返り咲こうとするのですが、それが叶わず、1975年に死去しました。



以上が蒋介石の概略です。



しかしながら、ポイントはここです。


敗戦後、昭和天皇の玉音放送の1時間前に、蒋介石もまた同じくラジオ演説を行い、


「日本国民に報復や屈辱を与えず、軍に踊らされていた日本国民に同情しよう」「うらみをうらみで返す事は、我々の目的ではない」


原爆を落とされて敗戦となった日本に対し、蒋介石が述べた言葉です。


このあたりの微妙な蒋介石気持ちの変遷をくみ取って『裏切られた自由』(訳者 渡辺惣樹):Herbert Hoover’s Secret History of the Second World War and Its Aftermath)P282~359「第2編 中国の衰亡」を読むことをお勧めします。