【阪本研究所】 SK laboratory 代表 Kazuyoshi Sakamoto

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『誰が第2次世界大戦を起こしたのか』(著者 渡辺惣樹) / フーバー大統領回想録『裏切られた自由』(訳者 渡邊惣樹)(原題 FREEDOM BETRAYED:Herbert Hoover’s Secret History of the Second World War and Its Aftermath)

誰が第2次世界大戦を起こしたのか


フーバー大統領回想録『裏切られた自由』(訳者 渡辺惣樹)とは(原題 FREEDOM BETRAYED:Herbert Hoover’s Secret History of the Second World War and Its Aftermath)の邦訳版です。


この本を詳細に解説する 『誰が第2次世界大戦を起こしたのか』(著者 渡辺惣樹)も出版されています。







ガリレオが、コペルニクスが、ダーウィンがそうであったように、世の中の通説を転覆させ、真実を述べることは勇気を必要とします。


アメリカ人が単純に信じ込む「米国=正義」に対して、そのタブーに正面から挑戦したのが、フーバー大統領回想録『裏切られた自由』です。





真珠湾攻撃


真珠湾攻撃は事前に暗合が解読されていて、日本をけしかけていたルーズベルト大統領の陰謀だったことは今や周知の事実。しかしながら、日本の攻撃でアメリカの反戦ムードは一気に吹き飛びました。



ルーズベルト外交は「自由への裏切り」


アメリカは孤立主義から大きく逸脱し、まずはヨーロッパ戦線に大軍を送り、ナチス・ドイツ、ムッソリーニのイタリアと戦闘。西側を勝利に導きました。




ところが、敵であるはずのロシアを支援し、戦後はソ連のスターリンが最大の裨益者となりました。死力を尽くしたポーランドが共産化され、チェコ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアばかりか、バルカン半島に到るまでソ連が手に入れることになりました。


極東においてはソ連は南樺太、全千島を手に入れても足りず、アジアは中国共産党の手に落ち、朝鮮半島は南北に分断され、結果としてルーズベルトはソ連の領土拡大に協力したことになりました。



ハルノート


フーバー大統領(任期1929−1933)はルーズベルト大統領に騙されていたのです。彼は何かを仕掛けたなとは本能的に直感しましたが、当時、すべての密約は密封され、フーバーにさえ「ハルノート」という最後通牒を日本に突きつけていたことは知らされていなかったのです。





FREEDOM BETRAYED


フーバーは書類、議会議事録、外交文書そのほかを緻密に検証し、20年の歳月をかけてこの本書『裏切られた自由』(原題 FREEDOM BETRAYED:Herbert Hoover’s Secret History of the Second World War and Its Aftermath)を書き残していた。



この本でフーバーの言いたいことはルーズベルト外交は「自由への裏切り」であったということ。



マルタ会談で東西冷戦は終わった


東西冷戦は、ルーズベルトの失策がもたらしました。そもそもルーズベルトの失敗は、ソ連を国家承認した(1933年11月)ときから始まっています。これは彼の大統領就任直後。


それが世界に厄災を運び、ルーズベルト政権の周りはソ連のスパイと共産主義者に囲まれて国策を次々と誤ってしまいます。


大胆にソ連に挑戦したのは1981年のレーガンの登場でした。


「スターウォーズ計画」、ミサイル防衛網を前面に出して、ソ連と対峙姿勢を示し、対抗策としてソ連は大軍拡に走ります。しかしながら、経済力がついてこられずあえなく頓挫。


そして、「ペレストロイカ」、「グラスノスチ」を謳ったゴルバチョ フが登場しました。




1989年師走、ブッシュ大統領とゴルバショフはマルタの沖合のヨットで会談し、東西冷戦が終結しました。


共産主義者は思想的敗北から逃れるために「環境保護」、「人権運動」、「フェミニズム」、「少数性差別」、「反原発」に流れ込み、日本でもその亜流がいまもメディ アが牛耳っています。





さて、1938年3月8日に、フーバーはヒトラーと会見しています。


誰が第2次世界大戦を起こしたのか』の著者 渡辺氏は下記のように解説しています。


「この会見でフーバーは、ヒトラーを狂信者であり、お飾りだけの愚か者だとする欧米の報道が間違っていることを確信した。ヒトラーは自身の言 葉で国家社会主義思想に基づく経済再建を語った。情報の豊かさは彼の優 れた記憶力を感じさせるものだった。」


その前年、1937年にルーズベルト政権はシカゴで演説した。有名な『隔離 演説』である。しかも、この演説で、ルーズベルトは「国内の経済問題を話題にしなかった。具体的な名指しは避けたものの、日独伊3国によって 世界の平和が乱されている、これを是正するためにはアメリカは積極的に国際政治に関与しなけれはならないと訴えた。」


フーバー大統領回想録『裏切られた自由』(上巻 P232~)ではフーバーがヒトラーを訪問した詳細が書かれています。





1939年1月15日、ナチスはチェコに侵入しました。


「少なくとも軍事侵攻ではない。ハーハ(チェコ)大統領との合意によるものだった。さらに、フーバーが考える独ソ戦では、ドイツはソビエト侵攻のハイウエイとなるチェコスロバキアを通らざるを得ないことは自明であ る」


次はポーランド。


ここで英国のチャンバレンはポーランドの独立を保障する宣言を行った。英米は、ドイツはスターリンとの対決に向かうと考えていたから、ポーランド回廊を通過するのは自然であり、このポーランド独立を英国が保障するということは、フーバーからみれば愚かな選択であった。






ルーズベルトがスターリンに譲歩したのはアメリカを不幸にした


ヒトラーは「独ソ不可侵条約」を結び、しかもソ連もポーランド侵攻に踏み切ります。


「犬猿の仲であった独ソ両国の唯一の共通点。それが第1次大戦期に失った領土回復を希求する強い思いであった」


舞台裏では何回も複雑に執拗に交渉が続きましたが、ポーランドの誤断も手伝って、ついにナチスはポーランドへ侵攻します。




この戦いがなければ日米戦争がおこるはずもなかったのですが、ポーランドの稚拙な対独外交が原因で、戦線が広がり、日米開戦への道が準備されます。


「カイロ宣言」、「テヘラン会談」から「ヤルタ」会談の密約、ポツダムへと米英ソの『密約』が次々と進み、アメリカ国民は何も知らされないままルーズベルトとスターリンの謀議は進展し、途中からチャーチルはのけ者にされてしまいます。




トルーマンはルーズベルトから殆ど何も聞かされていませんでした。原爆を保有したことさえ、トルーマンは知らなかったのです。






著者の渡邊氏は『誰が第2次世界大戦を起こしたのか』の最後で下記のように結んでいます。


中国と韓国は、日本を『極悪国』として捉え、歴史認識では日本の主張を一切受け付けず、21世紀になっても非難を続けている。歴史の捏造が明らかな南京事件についても、いわゆる慰安婦問題についても、アメリカは プロパガンダであることを知っている。



それにもかかわらず、アメリカが日本を擁護しようとしないのはなぜなのか。それは、ルーズベルトとチャーチルの戦争指導があまりに愚かであったからであり、その愚かさは、日本が(そしてナチス・ドイツが)問答無用に『悪の国』であったことにしないかぎり隠しようがないからである。


歴史修正主義は、戦後築きあげられた『偉大な政治家神話』に擁護されている二人の政治家(ルーズベルトとチャーチル)の外交に疑いの目を向ける。ナチス・ドイツや戦前の日本が、胸を張れるほど素晴らしい国であったと声高に主張しているのではない。極悪国とされている国を『歪んだプリズム』を通して見ることは止めるべきだと主張しているに過ぎない。




それにもかかわらず、歴史修正主義は枢軸国を擁護する歴史観だとのレッテルが貼られている。それは、ルーズベルトとチャーチルが引き起こした戦後世界の混乱の真因から目を逸らさせたい歴史家や政治家がいるからである。






ついに始まった黄色人種との闘い

(『裏切られた自由』下巻 P455)




白人種と黄色人種のとんでもない規模の戦いがついに現実になってしまった。我が国政府指導者の失策の結果、1億3000万の我が国民は、この10倍のアジア人種と、実質1国だけで戦うことになった。・・・・・・・  白人文明と黄色文明の戦いとなった。・・・



アジアの歴史は古い。3000年にもわたって続いているものであり、彼らの間には宗教的共通項がある。そして、白人種に対する長い長い嫌悪の感情がある。


それが日本の軍事指導のもとにまとまった。彼らは香港、シンガポール、ビルマを押さえ、白人優位の神話に大きな風穴を開けた。白人は大きな恥をかかされたのである。日本はアジアの人々を反白人の戦争に単に動員していると考えてはならない。もっと深い意味がある。彼らの戦いは、アジア文明のルネサンスなのだ。アジア文明の西側文明に対する団結した抵抗運動なのである。




大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん、旧字体:大東亞共榮圈、Greater East Asia Coprosperity Sphere または Greater East Asia Prosperity Sphere)は、太平洋戦争(日本側呼称・大東亜戦争)を背景に、第2次近衛内閣(1940年〈昭和15年〉)から日本の降伏(1945年〈昭和20年〉)まで唱えられた日本の対アジア政策構想である。


太平洋戦争期、日本政府がアジア諸国と協力して提起し、東條英機の表現によれば、共栄圏建設の根本方針は「帝国を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立」することにあった[2]。先立つ1938年9月の満州事変当時には「日満一体」、11月に第1次近衛内閣が日中戦争の長期化を受けて「東亜新秩序」の建設を声明しており、大東亜(だいとうあ)とは「日・満・華」に東南アジアやインド、オセアニアの一部も加えた範囲とされている。




「ニューディール政策成功」神話

(アメリカの対日政策を読み解く 著者 渡邊惣樹 P178~)


ニューディール政策と呼ばれるフランクリンの経済政策は今でも、積極財政策の成功例として記憶される。筆者の中学時代の歴史教科書にもそのように書かれていた。同年代の読者の多くが、その代表例とされたTVAという単語を記憶しているに違いない。



しかし、この政策の実態は完全な失敗でああった。巨額な財政赤字を覚悟して市場にお金を流しても、健全な民間資本による経済成長がなければ、好況はいつか止まる。それが起きたのが1937年から38年のことだった。失業率は14%(1937年)から19%(1938年)へ急上昇し失業者数も1000万人を超えた。


工業生産数は40%近い減少を見せ、1934年の水準に後退した。失業率が5%を切るほどの水準に下がり、景気が回復を見せたのは、イギリス支援のための武器生産を合法化した武器貸与法(1941年)成立以降であった。ニューディール政策は失敗であったが、贅沢な政府資金をばらまかれ潤った者たちは喜んだ。みな権力に近い者ばかりである。



歴史修正主義


フランクリン・ルーズベルト政権は、1939年から始まったヨーロッパの戦いに、なぜあれほど干渉的だったのか。それはニューディール政策の失敗を糊塗するためではなかったか。不況から脱出したい金融資本家グループが、それを密かに支援したのではないか。そうした疑問は自然に湧いてくる。しかし、そのような疑問を呈する歴史家は、「歴史修正主義者」と罵倒され、神話を疑う者は葬られる世論が形成されてしまった。



歴史学において歴史修正主義(れきししゅうせいしゅぎ、英: Historical revisionism)とは、歴史的な記述の再解釈を示すものである。これは通常、歴史的な出来事や時間軸、現象について専門の学者が持つオーソドックスな(確立された・受け入れられた・伝統的な)見解に挑戦することや、その見解とは反対の見解を示す証拠を紹介すること、関係者の動機や決定を再解釈したりすることを含む。歴史的記録の修正は、事実・証拠・解釈の新たな発見を反映することができ、その結果、歴史が修正される。劇的なケースでは、歴史修正主義は古い道徳的判断を覆すことを伴う。







【渡辺惣樹】『裏切られた自由』翻訳者が明かす“大戦の真実” - 戦前のナチスドイツは良い国と言われていた!? ~日本再興戦略 歴史修正論「日米衝突の根源」編|藤井厳喜×渡辺惣樹