【阪本研究所】 SK laboratory 代表 Kazuyoshi Sakamoto

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原題:FREEDOM BETRAYED『裏切られた自由』:Herbert Hoover’s Secret History of the Second World War and Its Aftermath)②

『裏切られた自由』(原題FREEDOM BETRAYED:Herbert Hoover’s Secret History of the Second World War and Its Aftermath)


書籍『裏切られた自由』は、第1章 共産主義の解説から始まります。



フーバーの「回顧録」の部分と「アメリカ外交史」が混在したものになっています。


また、歴史研究家が定義する「一次資料」「二次資料」といものがあります。


一次資料:筆者自身がある事件の証人であるか、又は、その事件に実際に関与していたことを記してあるもの。


二次資料:記述してあることに筆者が直接関わってないもの。


『裏切られた自由』は、上記2つの資料が混在しています。




第1編 自由人が苦しむことになる知的頽頽廃と倫理的背信


第1章 共産党主義思想の教祖、指導者、主義・主張及びその実践
第2章 ソビエトの国家承認 1933年11月
第3章 米国内におけるクレムリンの工作
第4章 共産党メンバーの連邦政府組織への浸透
第5章 共産党の「フロント」組織





共産主義国家


大戦開始前の共産主義国家はわずか一国でした。


それが1964年には、23の国又は国の一部が共産主義に支配されました。


レーニンが生きていた頃、共産主義は世界の人口のわずか5~6パーセントでした。




しかしながら、その人口は30パーセントは超えています。自由主義諸国の間にも共産主義化の動きは活発です。



『裏切られた自由』(原題FREEDOM BETRAYED:Herbert Hoover’s Secret History of the Second World War and Its Aftermath)は、第31代アメリカ大統領ハーバート・フーバーが、「過去に起きた真の事実を基にした判断なくして、我々は将来を考えることはできない」「その目的は、いつ、どこで、いかにして、誰が、道を誤って第二次世界大戦となったか、そして、なぜ、いま第三次世界大戦の危機を迎えているのかを順に追って明らかにします。




大事業

このような状況に陥ったことは、自由が裏切られたからである」として、戦後に共産主義を跋扈させた第二次世界大戦の過程を検証し、約20年の歳月をかけ完成させたもの。


編者のジョージ・ナッシュは、それを「大事業」と名付けました。




2011年にアメリカで刊行され、従来の見方とは違う歴史観「歴史修正主義」です。



「歴史修正主義」とは?


歴史学において歴史修正主義(れきししゅうせいしゅぎ、英: Historical revisionism)とは、歴史的な記述の再解釈を示すもの。これは通常、歴史的な出来事や時間軸、現象について専門の学者が持つオーソドックスな(確立された・受け入れられた・伝統的な)見解に挑戦することや、その見解とは反対の見解を示す証拠を紹介すること、関係者の動機や決定を再解釈したりすることを含む。歴史的記録の修正は、事実・証拠・解釈の新たな発見を反映することができ、その結果、歴史が修正される。劇的なケースでは、歴史修正主義は古い道徳的判断を覆すことを伴う。





ハーバート・フーバー (1874-1964), 第31代アメリカ大統領 1929-1933



ルーズベルトには、左翼的メンタリティーがありました。また、同じ傾向の政府高官が政権内に多くいました。フーバーが戦争への道に徐々に歩みを進めたのはそれも大きな要因です。


ルーズベルト自身は共産主義者ではありませんでしたが、彼の左翼思想によって、政権内には多くの社会主義者、共産主義者シンパが入り込みました。その中には共産党メンバーもいました。彼らはルーズベルト政権内の一大勢力でもありました。


スターリンがヒトラーと手を握る前の6年間も彼らはルーズベルト政権内の大きな勢力でしたが、手を握ってから(真珠湾攻撃までの)22ヵ月間もその力は強大でした。



                                                                                                                                                                          
このように、フーバーが「裏切られた自由」を招いたとして激烈に批判を展開しているのが、ソ連共産主義(スターリン)に取り込まれ、その拡張を後押したフランクリン・ルーズベルトの外交政策で、フーバーは本書の冒頭でいきなり共産主義の歴史から論じ、クレムリンによるアメリカ国内の浸透工作までを暴いています。





フランクリン・ルーズベルト(1882-1945), 第32代アメリカ大統領 1933-1945




ボルシェビキ


初期の段階のロシアの共産主義者は、2つのグループに分裂しました。


ボルシェビキは暴力革命を指向し、メンシェビキはむしろ非暴力的な革命を指向しました。


結局、レーニンの指導するボルシェビキが勝利し、1917年11月、権力を掌握しました。


メンシェビキの多くはボルシェビキに加わり、そうでない者は粛清されました。




ボーナス行進


ルーズベルト氏が大統領となった時期にも、共産主義者が我が国への工作を仕掛けている


ことは明白でした。


それを示す2つの大きな事件があり、ルーズベルト氏もそのことを知っていました。


1つは、1932年のいわゆる「ボーナス行進」と呼ばれるデモであり、


もう1つは、モスクワで作られた偽ドル札のバラマキでした。偽札は共産主義の活動のために使用されました。



ハーディング、クーリッジ、フーバーの歴代大統領はソ連と国交を持とうとしませんでしが、このような状況下で、ルーズベルトは大統領就任してから早々に、ワシントンで国交を結ぶ協議を求め、ソ連に特使を派遣しました。


メッセージを受けたソ連は、7日後に人民委員のマクシム・リトヴィノフを特使として


派遣し、1933年11月16日、(国家承認の条件として)ソビエトの方針(約束)を


提示します。




ソビエト社会主義連邦政府の方針


以下がソビエト社会主義連邦政府の変わらぬ方針です。


・アメリカ合衆国の内政には一切関与しない。


・アメリカ合衆国の平穏、繁栄、秩序、安全を傷つける行為やアジテーション、


・プロパガンダを一切しない、そしてさせない。


・アメリカ合衆国の領土および所有する権利を侵したり、政治的変化をもたらした


・社会秩序を乱すような行為はしないし、させない。


・アメリカ政府を転覆させたり、社会秩序を混乱させる目的を持つ団体や組織を作るようなことはしない。



これに加えて世界各国に対しても平和的態度を取ることを表明しました。




若手の外交官だったジョージ・ケナンは、ソ連の国家承認に対して、


「われわれは彼らと一切関係をもつべきではない。その時も、それ以後のいかなる時期にも決して私はソ連をこの国のための実際的あるいは潜在的な良き同盟国あるいは仲間とはみなさなかった」と回想しています。


当時のアメリカ大使館、公使館の多くがルーズベルトではなく、フーバーの写真を壁に掲げ、国務省のキャリア職員の大多数は、ソ連承認に反対し、大統領とその政策に対して、
根強い反感がありました。


ルーズベルトはこのキャリア外交官たちを警戒し、反ソ連の傾向が強い東欧局を解体もしています。




両国が協定に調印してからわずか48時間で、アメリカ共産党は、革命を目指す活動を


継続する旨の声明を発しました。


ベンジャミン・ギトローは、自著の中で、リトヴィノフはアメリカ共産党幹部とニューヨークで会談し、「彼の調印した文書はアメリカ共産党の活動を拘束しない」と伝えたと書いています。


アメリカ共産党は第三インターナショナルのメンバーでしたが、リトヴィノフは、自分が署名した文書は、ソビエト政府だけを拘束するもの (アメリカ共産党を束縛しないもの) だと説明しました。


リトヴィノフは、長年ロンドンに大使として駐在し、妻は英国人。



マクシム・マクシモーヴィッチ・リトヴィノフ(ロシア語: Макси́м Макси́мович Литви́нов, ラテン文字転写: Maxim Maksimovich Litvinov、1876年7月17日 - 1951年12月31日)は、ソビエト連邦の政治家、外交官。外務人民委員(外務大臣)、駐米大使などを歴任した。






そして、次のようにも述べている。


「心配無用だ。あんな調印文書は紙切れ同然だ。ソビエトとアメリカの外交関係の現実の中ですぐに忘れられる」


我が国がソビエトを承認したことは、国家としての信頼性のお墨付きを世界各国に与えたようなものでした。


我が国の決定に他の国々も追随しました。共産主義の陰謀を抑えていた蓋がこうして開いかれたのです。


そして、その結果がもたらした状況に世界は今なお苦しんでいるのです。



アメリカ共産党員の数


アメリカ共産党員の数は承認前は、13000人だったが、1938年には8万人を超えるようになり、ソビエトの国家承認を受け、共産党はアメリカ人メンバーを政府の重要機関の職員に就かせ、国家安全保障に関わる情報にアクセスできるようになりました。


その結果、国家の重要な意思決定に大きな影響を与えることになりました。


        
            
                                      
レーニンが権力を奪取した時から、ソ連はアメリカに目をつけていました。


1919年の元日に開催された人民委員会議で、次の文書が採択されています。


我々と米国との問題について、ソヴィエト・ロシアは包囲されている。


鉄の輪の中から自己を開放すべきである。さもなければ、滅亡する。


ソヴィエト政府を助けてくれる可能性があるのは米国だけである。


なぜなら米国は、その内外政策の利益のために共和制ロシアとの友好を必要としている


からである。


米国が必要としているのは、


第一に、国内工業製品のための市場である。


第二に、その資本を有利に投資するための機会である。


第三に、ヨーロッパにおける英国の影響力を弱めることである。


米国と日本の関係は誠実ではない。両国間の戦争は不可避である。


米国と関係を樹立することがまず必要である。それは国家として最重要課題であり、


ソヴィエト・ロシアの命運はその首尾よい解決にかかっている。





書籍『ローズベルトとスターリン テヘラン・ヤルタ会談と戦後構想』スーザン・バトラー


スーザン・バトラーの『ローズベルトとスターリン テヘラン・ヤルタ会談と戦後構想』は、本書「裏切られた自由」と対極をなす歴史観で、ルーズベルトやソ連礼讃で書かれています。




レーニンは、次のようにも述べています。


「我々は資本主義国家間の利害対立を利用しなくてはならない。一方を他方にけしかけるのである。共産主義者は無関心を装いつつ、ひたすら、そうした国において共産主義プロパガンダ工作を進めればよい。ただそれだけで終わってはならない。共産主義者の合理的な戦術とは、互いの敵意を煽って利用することである」


1929年のレーニンの死以来、スターリンがソ連を統治します。




そして、その承認を数10年間、首を長くして待っていたスターリンは、1934年にブリット大使に次のように語っています。


「ルーズべルト大統領は今日、資本主義国の指導者であるにもかかわらず、ソ連で最も人気がある人物の一人である」



独裁者のスターリンがレーニン以外に褒めちぎった人間はいなかったといわれています。


1924年には、


「プロレタリアート国家に敵対するブルジョア国家間における矛盾、いがみ合い、あるいは戦争といったものは、革命に至る準備的要素である」。


と述べ、承認後の1939年にも、


「同志諸君。私は全身全霊、必要なら我が血を流しても、労働者階級プロレタリアート革命
世界の共産主義のために尽くす。この言葉に嘘はない」。


として、リトヴィノフが示した「国家承認の条件としての約束」を


まったく守る気がありませんでした。


フーバーは、その共産主義者のやり口を具体的に提示しています。



「フロント(fronts)」


クレムリンは情報組織の構築には次のようなやり方を取りました。


まず、細胞(cells)となる共産党員に、政府内に忍ばせた情報提供者をまとめさせました。


このような細胞を、知識人団体、大学構内、労働組合あるいは新聞社や出版関係にも


潜入させました。


細胞ができると次に「フロント(fronts)」となる人間を選び出ししました。


それは必ずしも党員でなくてもよかったのです。


共産主義思想に共鳴する者が細胞となり、共産党員によって選び出されたフロントたちが、


プロパガンダ工作活動あるいは資金調達活動にあたりました。



そして、1961年12月までに、1000を超える「フロント」が、立法府や司法などに
よって工作機関であることが公になっている。


「フロント」組織を作る場合、まず組織の中心に共産主義者を据え、その周囲に、一群のリベラル思想を持つ同調者(シンパ)を配置する。



「フロント」周辺部にいる者は罪の意識を持たず、悪賢さもない。


なかにはただ何かの活動に参加したいだけの者もいる。




 ジョン・L・ルイス


共産主義者は、労働組合運動を乗っ取り、操ろうとしていましたが、それを本格化させたのはジョン・L・ルイスでした。


彼は鉱山労働者組合の指導者だったが、CIO(産業別組合会議)の組織化に成功。(1935年~36年)。


ルイス自身は共産主義者ではありませんでした、権力や維持のためにあらゆる手段を使いました。


CIOは設立当初から政治運動に関わり、PAC(政治活動委員会)なるものを作らせました。


目的は、ワシントン議会の議員候補や、大統領候補の中で、組織に都合の悪い者を葬ることでした。


下院非米活動委員会は彼らの活動を次のように報告しています。


CIOの幹部委員会はPACを組織した。四九人の委員がいたが、少なくとも18人は、


アメリカ共産党に絶対の忠誠心を持つ者でした。


PAC委員会はシドニー・ヒルマンでした。


ジョン・L・ルイス
ジョン・L・ルイスは、1920年から1960年まで、アメリカ鉱山合同組合(UMWA)の代表をつとめました。彼は、国内鉱山労働者の賃金、労働条件、保健医療の改善に加え、アメリカの産業別労働組合を産業別労働組合会議(CIO)として統合するために力を尽くしました。彼の活動は時として大いに一般の不評を買うことがありましたが、ルイスはアメリカの炭鉱労働者の生活向上のために努力を怠ることがありませんでした。例えば、1943年にルイスは50万人の炭鉱労働者を率いて賃金向上のためのストライキを行いました。石炭は鉄鋼製造に使われていたので、戦争の真っ只中で鉄鋼産業は2週間の休業を強いられました。多くの人々がルイスを反アメリカ的であると批判し、労働運動は貴重な支持を失いました。ルイスの最も大きな功績はおそらく炭鉱労働者のためによりよい医療保障を勝ちえたことでしょう。ルイスの指導のもと、政府はUMWAと協定を結び、炭鉱のある地域に8つの病院と数多くの診療所を設立しました。炭鉱労働者の多くは黒肺病に苦しんでおり、これらの施設はこうした労働者の医療ニーズを満たすものでした。1964年、リンドン・ジョンソン大統領によりジョン・L.ルイスに民間人のアメリカ人に対する最も栄誉ある勲章である大統領自由勲章が授与されました。ルイスは1969年に亡くなりました。






ロシア革命


ルーズベルト政権では、労働問題の有力顧問であり、戦時生産統制委員会に対して


強い影響力を持っていました。


ロシア生まれのヒルマンは、ロシアの初期の革命を経験しました。


1907年にアメリカにやって来ると、労働者の組織化に関わりました。


1914年には、強力な組合であるアメリカ衣料産業合同労働組合の委員長となりました。


後に上院で証人喚問を受けているが、1922年にはアメリカ共産党の党員でした。


この年に彼は一旦モスクワに戻っています。


ソヴィエトロシアを擁護する論文を執筆し、共産党活動にも積極的に関わりました。



ロシア革命(ロシアかくめい、露: Российская революция ラシースカヤ・レヴァリューツィヤ、英: Russian Revolution)とは、1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称である。特に史上初の社会主義国家樹立につながったことに重点を置く場合には、十月革命のことを意味している。また逆に、広義には1905年のロシア第一革命も含めた長期の諸革命運動を意味する。





CIOそしてPACは、選挙の際にはどの候補に組織的に反対すべきかのリストを作成しています。リストは実質的に共産党が作成した内容と同じでした。




1944年の民主党(大統領候補選出の)大会におけるヒルマンの影響はきわめて大きかった。その年のランニングメイト(副大統領候補)の選択にあたって、ルーズベルトが、
「シドニーと調節してくれ」と言ったことはよく知られています。



米国民に対するモスクワの工作


米国民に対するモスクワの工作は四つの方法で行われました。(本書付属の史料21)


一 アメリカ共産党による(親ソ)国民世論の形成活動。


二 国内の主要な労働組合の支配。


三 本来であれば何の害もない組織の乗っ取り


  (たとえば太平洋問題調査会:The Institute of Pacific Relations)


四 共産主義者や共産主義シンパをルーズベルト政権の各組織上層部ぬ潜り込ませ


  政策決定に関与。


これらの証拠は、編者序文でジョージ・ナッシュ


「すでにヴェノナ文書によって、ワシントンに潜入したソビエト・エージェントの


戦時における驚くべき活動の様子は、歴然としてきた」と述べています。



そんなルーズベルトは、ホワイトハウスのキャビネットルームのマントルピースの上に


第28代大統領のウッドロウ・ウィルソンの肖像写真を飾っていました。


友人でもあり、スピーチライターでもあったロバート・E・シャーウッドは、


「ウィルソンの悲劇はいつもどこか、彼の意識の端にひっかかっていた。


ローズヴェルトには決してウィルソンの失敗を忘れることができなかった」


と、演説草稿を練りながらその写真をよく見上げていたと回想しています。



ウッドロウ・ウィルソン(1856-1924), 第28代アメリカ大統領 1913-1921




トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(英語:Thomas Woodrow Wilson、1856年12月28日 - 1924年2月3日[1])は、アメリカ合衆国の政治家、政治学者。第28代アメリカ合衆国大統領を務めた。アンドリュー・ジャクソンの次にホワイトハウスで連続2期を務めた2人目の民主党の大統領である。「行政学の父」とも呼ばれる。
進歩主義運動の指導者として1902年から1910年までプリンストン大学の総長を務め、1911年から1913年までニュージャージー州知事を務めた。1912年アメリカ合衆国大統領選挙では共和党はセオドア・ルーズベルトとウィリアム・ハワード・タフトの支持に分裂し、結果として民主党候補であったウィルソンが大統領に当選した。名誉学位では無く、実際の学問上の業績によって取得した博士号を持つ唯一の大統領である。




パリ講和会議


そのウィルソンとは、神に託された使命を果たしていると唱え、理想主義者であり、


第一次世界大戦後のパリでの講和会議で、民族自決原則を強く主張した人物。


「民族自決を求める声は尊重されなくてはならない」


「いかなる民族も搾取されるようなことがあってはならない」


「自らの意志と同意によってのみ統治される」


だが、こうした主張が適応される国は限られました。

「ウィルソンが平和をもたらし、悪の支配を打ち倒す」と称えた、1919年にフランスで発売されたポストカード




オスマントルコ帝国やオーストリア・ハンガリー帝国領土内の民族だけが対象となりました。


ヨーロッパ諸国の植民地には適用されませんでした。




ウィルソンの二枚舌的な主張は各地に暴動の種を播きました。


1919年春、世界各地でそれが起きました。


エジプトでの反英運動、朝鮮での反日運動(三.一万歳事件。ウィルソンが1918年1月に


発表した「十四ヵ条の平和原則」を受けて起きました。


インドではガンジーによる反英運動が起きました。




中国では反帝国主義運動が激しくなり、


指導者であった孫逸仙(孫文)は「大国の民族原則は欺瞞だ」と訴えました。


― 列国首脳は各地で発生した抗議の動きを無視しました。


彼らにとっては植民地を維持するほうが民族自決の原則より重要でした。


そうして姿勢がその後数十年にわたる動乱の種となりました。





十四原則(Fourteen points)


そのウィルソンが掲げた、有名な十四原則(Fourteen points)は、


1918年の年頭演説で述べたもの。


(1) 秘密外交の禁止 (2) 海洋の自由 (3) 可能な限りにおける経済障壁の放棄


(4) 軍備の削減   (5) 植民地側の要求の公平無私な調整


(6) ロシア領土からの占領軍の撤退 (7) ベルギーの主権回復


(8) アルザス=ロレーヌ地方のフランスへの返還


(9) 明らかに判別できる民族の分布を基準とするイタリア国境の再調整


(10) オーストリア=ハンガリー連合国内の諸民族の自治


(11) ルーマニア、セルビアおよびモンテネグロからの外国軍隊の撤退


(12) オスマン・トルコ帝国の内部における非トルコ系諸民族の自治ならびに


   ダーダネルス海峡の自由通航権


(13) 自由で安全な海への通路をもった独立ポーランド国の創設


(14) あらゆる諸国の政治的独立を保証する目的をもった包括的な国際組織の設立


アメリカもフィリピンやカリブ海などに植民地を持っていたが、パリを発って帰国する時にウィルソンは、


「自由と正義、そして人間として尊厳を、未だ啓蒙されざる人々に伝えなければならない。


我がアメリカの理想とする理念の中で彼らが生きられるようにしなくてはならない」


と述べています。


(14)は講和会議後に「国際連盟」として実現しましたが、


アメリカ自身は連邦議会(上院)の反対で加盟できず、二つ三つしか実現しませんでした。


ルーズベルトもこの講和会議に海軍次官としてパリにいました。


そして、アメリカの上院でこの法案が否決されたときに、ルーズベルトは精神的に


ひどく落ち込み、ウィルソンが無力になり、その理想が実現されなかったことを欲求不満を高めながら見守っていたらしい。



ちなみに、ハンス・モーゲンソーは『国際政治』のなかで、「旧帝国秩序が崩壊するや、なお自決の名の下に、ただちに新しい帝国主義が呼び起こされた」



「この原則は、第一次世界大戦の終了から第二次世界大戦の終了に至るまで、これら諸国の最も有力なイデオロギー的武器であった」


と述べています。


◆参考 
モーゲンソー・プラン(Morgenthau Plan)は、第二次世界大戦中に立案されたドイツ占領計画の一つ。


二度の世界大戦において同盟国(中央同盟国・枢軸国)の中心的存在であったドイツから、戦争を起こす能力を未来永劫奪うため、過酷な手法を用いる懲罰的な計画であった。本来の提案では、計画は以下の3つの段階からなっていた。


ドイツを2つの国家(北ドイツと南ドイツ)に分割する。
ドイツの主要な鉱工業地帯であるザールラント、ルール地方、上シレジア(シュレジエン)は国際管理の下に置くか、近隣国家に割譲する。
ドイツの重工業は、その全てを解体あるいは破壊する。




『ルーズベルト一族と日本』


第一次世界大戦終結のベルサイユ会議で、日本の主張する人種差別廃止宣言に強硬に反対して流産させたのはウィルソン大統領である。


1919年、国際連盟の結成が決まり、その規約作成の場で、日本代表の牧野信顕が、


「連盟に参加している国家は、人間の皮膚の色によって差別を行わない」という内容の条文規定に入れるよう提案しました。


日本としては長い間、日本人移民が米国で不当に差別される問題に悩まされていたので、それを国際的レベルで改善したいと考えたからでした。


賛成多数であったが、議長の米大統領ウィルソンは「かような重大な問題は、全会一致にすべきだ」として否決しました。



『ルーズベルト一族と日本』谷光太郎




日米戦争の遠因


戦後に昭和天皇は、日米戦争の遠因を次のように述べています。


「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦後の平和条約に伏在している。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し、カリフォルニア州の移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。
かかる国民的憤慨を背景にして一度、軍が立ち上がった時には、之を抑えることは容易な業ではない」。


その他にも、ポルシェビキ思想を恐れる空気が強かったが、ウィルソンはこれを害毒だと主張してもいます。




口では綺麗事をペラペラと述べ、裏では人種差別主義者で、ビジネス重視の側面を強く持っていたのがウィルソン。


ウィルソンの理想主義はビジネス重視の側面を強く持っていました。


彼は聖書の福音のごとくに民族自決の原則を説きながら、一方で自国の商業的利益を


忘れませんでした。


「我が国産業の将来的な利益は諸外国の工業化に大きく依存する」


「私はアメリカ産業の利益について責任を持つ」と語りました。


アメリカ外交はアメリカのビジネス上の利益推進を目指すべきだとの理念を表明しました。


                

「 家父長的温情主義」


ウィルソンの考えの中には「 家父長的温情主義」があることを忘れてはなりません。


彼は南部貴族階級の出身であった。クー・クラックス・クランすら信奉していた。


従って、彼にとって黒人隔離政策は、黒人の利益になりこそすれ、決して黒人を侮辱するものではありませんでした。それがウィルソンの歪んだ温情主義でした。


連邦政府組織やワシントン交通局に黒人隔離制度を導入した大統領だったことからも、


彼の「温情主義」の性格がよくわかります。


ホワイトハウスで新作映画「國民の創生(The Birth of a Nation)」が先行上映されたことが


ありました。




黒人が暴力的な類人猿のように描写されていた場面について、「実態は映画のとおりだ」とウィルソンは述べています。


彼は、2期8年の任期中、歴代のどの大統領よりも海外に派兵しました。


キューバ、ハイチ、ドミニカ、メキシコ、ニカラグア




ポルシェビキ戦


革命が起きたロシアにも対ポルシェビキ戦に軍を出しました。





彼以前の大統領も海外に派兵することはありました。


しかし、ウィルソン大統領の派兵の理由はふるっていました。




抑圧された人々に民主主義をもたらすためであると主張しました。


それまでの大統領の派兵理由とは逆でした。



有色人種には自治能力がなく、他者や統治されなければ混乱は収まらない。


それが海外派兵の理由でした。


自然人類学担当のアレシュ・ヘリチカ博士


そんなウィルソンの肖像写真をホワイトハウスのキャビネットルームに掲げ、尊敬し、


同じような行動をとっていたのが、ルーズベルトでした。


ルーズベルトはスミソニアン博物館の自然人類学担当のアレシュ・ヘリチカ博士




親交があり、「博士から次の2つを学んだ」と語りました。


① インド人が白人と同種だということ


② 日本人が極東で悪行を重ねるのは、頭蓋骨が未発達で、白人と較べ、2000年以上も遅れているのが原因。


ルーズベルトの駐米英公使サー・ロナルド・キャンベルへの話は続きます。


この①と②により、


アジアに文明の火を灯すには、アジア人種を(白人種)交配させユーラシア系(欧州白人系)、


欧州・アジア系、インド・アジア系を作り出し、それらによって、立派な文明とアジア社会を産みだしていく。


但し、日本人は除外し、元の島に隔離し、次第に衰えさせて行く。


また、日米開戦5年前(1936年)に、ルーズベルトは対日有事を想定して、ハワイの日系人を強制収容所に収監する計画を検討していました。




フーバーは、そんなルーズベルトのニューディール政策 や、親ソ的な傾向でドイツや日本に対抗するためにソ連と手を組み、第二次世界大戦へ参戦し、中国共産党を育てたことも痛烈に批判をしています。




「アメリカはドイツとソ連の間で戦争が勃発したとき、放っておけばよかった。日本に対しても、経済が困窮していたので、勝手に自壊する。」


ルーズベルトは、天才的な能力で、頑迷で腰を上げようとしない国民に国家の義務を


果たさせた。これがルーズベルト支持者の解釈である。


そうではなく、ルーズベルトは国民をまっあく必要もない戦争に巻き込み、とんでもない厄災を招いた。


エゴイズム、悪魔的な陰謀、知性のかけらもない不誠実さ、嘘、憲法無視。


これが彼のやり方に際立っていた。反ルーズベルトの人々はこのように解釈します。




ドイツへの恐怖


ルーズベルトの不誠実さをはっきり示しているのは、


3年間にわたって、アメリカ国民に若者を戦争に送り出すことはないと約束し続けて


いながら、実際は参戦に向けた外交を繰り広げていたことでです。


ドイツには憲法に違反する宣戦布告なき戦いを始めていました。


真実とは違う説明で、国民にドイツへの恐怖と憎しみを煽りました。




武器貸与法の不当の意図を隠し、日本の反撃を確実にする対日経済制裁を行いました。


近衛からの和平提案を拒否しました。


英国との軍事協定でポルトガル(領土)と日本への攻撃を、議会の承認なく決定しました。


国民に対して(第一次大戦に続く)第二の自由を守るための「十字軍(second crusade)」を


要求しました。


彼の要求した四つの自由は結局は世界のあざけりの対象となり、大西洋憲章は我が国民の彼に対する信頼を裏切るものになりました。


どちらもテヘラン会談においてスターリンを喜ばせるために犠牲にされました。




その結果、1億5000万の人々は奴隷状態に追いやられ、夜も昼も恐怖におののきながらの生活を余儀なくされました。




ヤルタ会談


ヤルタ会談では、右記の犠牲を国民に隠し通し、さらなる譲歩をした上その事実を否定し続けました。




アメリカ国民もアメリカ議会も、真珠湾攻撃までは圧倒的に我が国の参戦には反対でした。


このことはあまりにも自明で非公式な世論調査の結果もそれを示しています。


何よりも、ルーズベルト自身が、繰り返し若者を戦場に送らないと約束していたことや、対独戦争のための軍事増強、武器貸与法、英国船団の護衛、対日経済制裁などの政策を、すべてアメリカが戦争に巻き込まれないための方策だというごまかしの説明をせざるを得なかったことからも明らかなのです。


アメリカ国民が、我が国を戦争に巻き込んだすべての男たちが激しく嫌悪するときが
必ず来る。そうした連中を神格化しようとする試みは失敗しているのです。



テヘラン会談の目的

テヘラン会談は、ルーズベルトの最も大切な目的を推進するために計画されました。


それは、すべての国がメンバーとなるもっと実効的な形の「国際連盟」を設立するということでした。




そのような機関こそ、平和な世界を維持するための最良の、まさに唯一の道であると


彼は信じていました。


この機関は、どの加盟国でも苦情を申し立てることができ、すべての国家が意見を交わす


ことのできるようなフォーラムになる。


場合によってはこの機関は行動の権限も手に入れる。


ローズヴェルトの計画では、世界の四人の警察官として行動する四つの超大国が出現する


ことになっていました。それは、 アメリカ、ソ連、英国、中国です。


これらの四ヵ国は、他の諸国よりも大きな力を持っているので、戦争に勝利したあかつきには世界の秩序を守ることになる。




『ローズベルトとスターリン テヘラン・ヤルタ会談と戦後構想』スーザン・バトラー



核兵器の存在によって、米国とソ連は冷戦期を通じて直接戦火を交えることを互いに


思い止る一方、その敵意は同盟国、属国、代理国家による戦争にはけ口を求めました。


それゆえ前例のない大国間の平和の裏で、小国間の絶え間ない熾烈な戦争があり、


1948~91年の冷戦期の間に144回もありました。






第二次世界大戦のさなか、対独戦、対日戦勝利だけでなく、戦後の国際秩序を見据えて協力を模索した、二巨頭の知られざる関係とは?


第二次世界大戦において、ローズヴェルトとスターリンはテヘラン会談(1943年11月28日〜12月1日)とヤルタ会談(1945年2月4日〜11日)で首脳会談をチャーチルも交えて行った。対独戦勝利と戦後の国際平和構想の実現のためには、ソ連の協力とスターリンの個人的な友人関係が不可欠と考えたローズヴェルト、前向きにその協力に取り組んだスターリン。しかし大戦中は概ね良好だった米ソ関係も、ローズヴェルトの早逝とトルーマンの登場により、停滞と悪化へ向かうこととなる……。

「四人の警察官」(米英中ソ)による戦後の国際平和構想は、ローズヴェルトの悲願であり、援助物資や政治課題について、スターリンと直接顔を合わせて会談する必要性を痛感していた。本書は、各国の思惑、指導者たちの人間関係から、テヘランとヤルタ会談の舞台裏、トルーマンによる原爆投下の衝撃までを生き生きと描く。書簡・電信などの新史料を駆使して、逸話満載でつづる歴史読物。作家は米国の著述家で、両首脳の交信記録を完全に編纂して、その背景を解説した著書がある。






ハーバート・フーバーとは?



 第三十一代アメリカ大統領ハーバート・クラーク・フーバー。1895年(明治28年)にアイオワ州の貧しい農家に生まれたフーバーは、苦学して大学を卒業し、鉱山技師になりました。敬虔なクエーカー教徒だったフーバーは働き者でした。
世界中の鉱山を渡り歩き、45ヶ国もの国々で働き、フーバーは屈指の世界通となりました。









 鉱山ビジネスで財を成したフーバーは、第一次世界大戦に際会すると慈善事業にのりだします。
ヨーロッパの戦争地域に居住していたアメリカ人の帰国を支援したのです。さらに、イギリス軍の対独港湾封鎖作戦の余波によって食糧不足に陥ったベルギーに大量の食糧を輸送してベルギー国民を飢餓から救いました。




フーバーは私費をなげうち、民間から寄付を募り、すべてを民間事業として推進しました。称賛に値する民間慈善事業でした。これを喜ばなかったのはイギリスです。イギリス政府はフーバーの事業を妨害しようと画策しますが、フーバーは屈せず、民間の力で食糧支援を継続しました。




 フーバーの活躍はウイルソン大統領の目にとまります。ウイルソン大統領はフーバーを食糧庁長官に抜擢しました。フーバーは食糧支援事業を拡大させ、ポーランドやソビエト連邦への食糧支援を実施します。人道援助活動の推進者としてフーバーの名は大いに高まりました。







 この功績が認められ、1921年、フーバーは商務長官に累進します。その後、共和党大統領候補となり、1929年三月、第三十一代アメリカ大統領に選ばれました。アメリカ史上はじめての経済界出身の大統領でした。




 この頃、アメリカは繁栄の絶頂期にありました。資本主義者のいう「神の見えざる手」によって経済成長が保証されているとだれもが信じていました。フーバー政権の船出は順風満帆に見えました。



アダムスミス 国富論 「神の見えざる手」






 これが暗転したのは突然です。フーバーが大統領に就任して間もない10月、ウォール街の株式市場で株価の大暴落が発生し、アメリカ経済が大混乱に陥っていきます。この余波は世界へ広がり、世界恐慌となります。





 財政均衡論者だったフーバー大統領の経済対策は、その初動において対応を誤りました。緊縮政策をとったのです。このためアメリカの経済規模が縮小し、失業者が巷にあふれるようになりました。過ちに気づいたフーバー政権は、財政均衡原則をかなぐりすて、失業者を救済するために財政出動を拡大させ、大規模な公共事業を実施するようになりました。それでも経済はなかなか好転しませんでした。



 フーバー政権が財政赤字を拡大させたことを政敵たちは見逃さず、政権批判の材料にしました。なかでも民主党のフランクリン・ルーズベルトは、フーバー政権の財政赤字拡大をきびしく非難して世間の注目を集めました。







 フーバーが再選を目指した大統領選挙はきびしい戦いとなりました。深刻な不況下での選挙に勝つのは不可能と言えるでしょう。フーバー大統領は苦杯をなめます。勝利したのは民主党のフランクリン・ルーズベルトでした。フーバーは失意のうちにホワイトハウスを去ります。




 フーバー政権の財政出動と赤字拡大を非難して支持を集めたルーズベルト大統領は、いざ政権の座につくと、そのことを忘れたかのように大々的な財政出動を実施していきます。いわゆる【ニュー・ディール政策】です。





 ルーズベルト大統領は政権中枢に若手の共産主義者や社会主義者をかき集めて政策ブレーンとし、社会主義的政策を推進していきました。




そんなルーズベルト政権を、こんどはフーバーが野党の立場から批判しました。特にソビエト連邦を国家承認してスターリンに接近したルーズベルト大統領の動きにフーバーは警鐘を鳴らしました。伝統的リベラリストだったフーバーは、共産主義や全体主義に警戒感と嫌悪感を持ってたので、ルーズベルト大統領のすすめる容共外交と全体主義的内政をやきもきしながら見守っていたのです。フーバーが懸念したのは、ルーズベルト大統領の対欧州外交と対アジア外交です。ルーズベルト政権は欧州や極東の情勢に過剰に干渉していました。




 フーバー政権の外交政策は不干渉主義でした。ヨーロッパにも極東にもあまり深く介入せず、アメリカの巨大な国力を平和維持の仲裁者として活用するという方針でした。




そんなフーバー政権とは異なり、ルーズベルト大統領の外交政策は欧州とアジアに過剰な介入をし、むしろ紛争を激化させていました。ルーズベルト政権はポーランドやイギリスやフランスを支援してドイツとの対立を煽りました。アジアでは蒋介石を全面的に支援して支那事変を長引かせていました。




その結果、欧州で第二次世界大戦が始まってしまいます。さらにルーズベルト大統領は日本を経済的に圧迫し、ついには日本軍を刺激して「真珠湾奇襲」を惹起させます。これを奇貨としてルーズベルト大統領はアメリカを第二次大戦に参戦させます。





 アメリカ参戦の瞬間から歴史修正主義者としてのフーバーの事業が始まりました。なぜアメリカが参戦することになったのか。アメリカは参戦せず、むしろ戦争の仲介者として振る舞うべきではなかったか。これがフーバーの問題意識でした。






◆歴史修正主義とは?
歴史学において歴史修正主義(れきししゅうせいしゅぎ、英: Historical revisionism)とは、歴史的な記述の再解釈を示すもの。これは通常、歴史的な出来事や時間軸、現象について専門の学者が持つオーソドックスな(確立された・受け入れられた・伝統的な)見解に挑戦することや、その見解とは反対の見解を示す証拠を紹介すること、関係者の動機や決定を再解釈したりすることを含む。歴史的記録の修正は、事実・証拠・解釈の新たな発見を反映することができ、その結果、歴史が修正される。劇的なケースでは、歴史修正主義は古い道徳的判断を覆すことを伴う。




 野党議員だったフーバーは、参戦に至るまでの政権中枢の機密に触れることができませんでしたが、入手可能な情報を蓄積して分析し、真相を割り出そうとします。ルーズベルト大統領の演説や声明、ルーズベルト政権が成立させた各種の法律、それに対する世論と各国政府の反応、真珠湾奇襲に関する各種報告書、アメリカ国務省の外交文書、ソビエト共産党の動向など、客観的な資料を収集していきました。




 スタンフォード大学フーバー研究所には戦中から戦後にかけての膨大な歴史的文書が集積され、分類されていきました。アメリカおよび世界各国から23万部以上もの文書が集められました。フーバー自身も活発に動きました。世界各国の要人に会い、その証言を収集したのです。





 収集した資料を読破し、フーバーが研究成果をまとめたのは1963年9月です。アメリカの参戦から20年以上が経過していました。
その原稿には「裏切られた自由」(原題:FREEDOM BETRAYED) というタイトルがつけられました。自由主義者のフーバーから見ると、ルーズベルト大統領の政策はあまりにも容共的であり、全体主義的であり、自由主義への裏切りだったからです。





 せっかく完成した原稿でしたが、フーバーは出版をためらいました。その衝撃的な内容がアメリカ社会に混乱を引き起こすかも知れないと考えたからです。また、フーバーとルーズベルトが互いに政敵だったことから、「単なる誹謗中傷だ」と人々に誤解されることをおそれたのです。




 翌年、フーバーは世を去り、歴史修正の事業はフーバー研究所に託されました。フーバーが晩年の全精力を傾注して執筆した「裏切られた自由」がアメリカで出版されたのは2011年。フーバーが執筆を始めてから実に70年以の時間が経過していました。




 「裏切られた自由」は、ルーズベルトを英雄視してきた戦後アメリカ社会に大きな衝撃をあたえました。戦勝国史観に深甚な疑問を投げかける内容だったからです。




 フーバーの見解によれば、第二次世界大戦とは、ルーズベルトとスターリンが談合して世界を分け合うためのイベントでした。実際、スターリンのソビエト連邦はユーラシア大陸の大半を赤化させ、ルーズベルトのアメリカは世界の海洋覇権を獲得しました。






ルーズベルト大統領は自由と民主主義を守ったわけではありません。ルーズベルト大統領はアメリカの海洋覇権を確立するために独裁者スターリンと談合し、東欧と支那大陸を共産ソビエトに提供したのです。