【阪本研究所】 SK laboratory 代表 Kazuyoshi Sakamoto

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The Way of ZEN ALAN W.WATTS

The Way of ZEN


TheWay of Zenは、哲学者で宗教学者のアラン・ワッツによる1957年の禅仏教と東洋哲学に関するノンフィクションの本。ベストセラーで、ほとんどが若い西洋の人々に仏教を紹介する上で主要な役割を果たしました。



The Way of Zen is a 1957 non-fiction book on Zen Buddhism and Eastern philosophy by philosopher and religious scholar Alan Watts. It was a bestseller and played a major role in introducing Buddhism to a mostly young, Western audience.



https://terebess.hu/english/AlanWatts-The%20Way%20of%20Zen.pdf




アラン・ワッツ(Alan Watts)

アラン・ワッツ(Alan Watts, 1915年1月6日 - 1973年11月16日)は、イギリス生まれのの著作家。後にアメリカ合衆国に移住した。19歳で最初の著書「The Sprit of Zen」を書いた。アメリカに渡り、いくつかの仕事を通じて、60年代のカウンターカルチャーのカリスマ的リーダーとして活躍した。




色即是空 空即是色


色即是空 空即是色「しきそくぜくう くうそくぜしき」という8文字の言葉はこの世の本当の姿を表したと言える言葉です。 色即是空の意味、空即是色の本当の意味が分かることで、この世の苦しみから解放される一歩になる とお釈迦様は説きます。




Review

"Now classification is precisely maya. The word is derived from the Sanskrit root natr-, 'to measure, form, build, or lay out a plan,' the root from which we obtain such Greco-Latin words as meter, matrix, material, and matter. The fundamental process of measurement is division, whether by drawing a line with the finger, by marking off or by enclosing circles with the span of the hand or dividers, or by sorting grain or liquids into measures (cups). Thus the Sanskrit root dva- from which we get the word 'divide' is also the root of the Latin duo (two) and the English 'dual.'


To say, then, that the world of facts and events is maya is to say that facts and events are terms of measurement rather than realities of nature. We must, however, expand the concept of measurement to include setting bounds of all kinds, whether by descriptive classification or selective screening. It will thus be easy be easy to see that facts and events are as abstract as lines of latitude or as feet and inches. Consider for a moment that it is impossible to isolate a single fact, all by itself. 


Facts come in pairs at the very least, for a single body is inconceivable apart from a space in which it hangs. Definition, setting bounds, delineation--these are always acts of division and thus of duality, for as soon as a boundary is defined it has two sides."



Thoughts like this are echoed in the "Perennial Philosophy," another book by a westerner deeply interested in the mystical and non-rational. There is a consistent thread within this tradition of the "essential badness of division" (as Huxley put it). As soon as you measure or mark off, you create an "other." This can lead to all kinds of linguistic conundrums, like the fist/open hand parable Watts gives, but ultimately the real danger is something deeper confusing symbols, such as words, with whatever it is they are trying to describe. The signifier becomes the signified.



The perennial philosophy ( Latin: philosophia perennis ), also referred to as perennialism and perennial wisdom, is a perspective in philosophy and spirituality that views all of the world's religious traditions as sharing a single, metaphysical truth or origin from which all esoteric and exoteric knowledge and doctrine has grown.




So how do you avoid this trap? If you start to feel a sense of panic at this point, you aren't alone. Division is embedded in language itself, because what is a word if not a way of separating a thing from other things? 


Watts points out that language is ultimately a convention society agrees upon. It is complex and takes generations to build, but in the end the reason we call a tree a "tree" in English is because we have collectively decided that it is, and not "boojum." It could have been boojum, theoretically, because there is no such thing as a word that is inherently "tree-ish." Here the Middle Path is again useful. 




The trick is not to defy convention, but to understand it, or as Watts says "to be free from convention is not to spurn it but not to be deceived by it. It is to be able to use it as an instrument instead of being used by it."


Although grasping this is a small step, one on the path to liberation.





禅とは?


禅(ぜん、Zen)は、仏教用語として「心が動揺することのなくなった状態」を意味する サンスクリット語「ध्यान( dhyāna、ディヤーナ)」の音写である禅那(ぜんな)(=禅定)の略語で、類義語として、三昧(さんまい)や定(じょう)と訳されるサマーディ(巴、梵: samādhi)がある。


ただ、中国において、大乗仏教の一宗派として、禅那(ぜんな)に至る真の教えを説くとする禅宗(ぜんしゅう)が確立すると、禅は「禅宗」の略称ともなった。


また、禅宗における坐しての瞑想は坐禅と呼ばれ、禅宗における修行の中心とされるが、禅は、この坐禅(座禅)の略語としても用いられる。




禅宗は南インド出身で中国に渡った達磨僧(ボーディダルマ)を祖とし、坐禅(座禅)を基本的な修行形態とする。ただし、坐禅そのものは古くから仏教の基本的実践の重要な徳目であり、坐禅を中心に行う仏教集団が「禅宗」と呼称され始めたのは、中国の唐代末期からである。こうして宗派として確立されると、その起源を求める声が高まり、遡って初祖とされたのが達磨である。それ故、歴史上の達磨による、直接的な著作は存在が認められていない。伝承上の達磨のもたらしたとする禅は、部派仏教における禅とは異なり、了義大乗の禅である。


中国禅は、唐から宋にかけて発展し、征服王朝である元においても勢力は健在だったが、明の時代に入ると衰退していった。日本には、禅の教え自体は奈良時代から平安時代にかけて既に伝わっていたとされるが、純粋な禅宗が伝えられたのは、鎌倉時代の初め頃であり、室町時代に幕府の庇護の下で日本仏教の一つとして発展した。明治維新以降は、鈴木大拙により日本の禅が、世界に伝えられた。



禅の始まり


さて、宗教としての禅の始まりは、いつになるのでしょうか?


 約2500年前、釈迦がインドのブッダガヤの菩提樹の下で坐禅を組み、悟りを開きました。広い意味での禅はここからスタートしたとも言えますが、一般的な禅の始まりは達磨(だるま)からと考えられます。彼は釈迦から数えて、28代目の弟子にあたります。南インドの王子として生まれた達磨が、修行の末に会得した禅を携えて中国に入ったのは、6世紀頃とされています。



少林寺で9年もの間壁に向かい、ひたすら坐禅を続けた、「面壁九年」という逸話がよく知られています。経典に頼らず、坐禅という実体験から悟りに辿り着こうとする禅のあり方を示した「不立文字(ふりゅうもんじ)」もまた、達磨がもたらした言葉です。文字で伝えられることには限界があり、体験に勝るものはない、という教えなのです。



禅の宗派の誕生

中国ではやがて、それ以前に伝わっていた経典主義の仏教とは違う禅のよさが浸透し、各地で個性的な禅の宗派が生まれました。ですが、徐々に衰退、禅は日本に伝わることで、今日に至るまで継承されて来たのです。




禅が日本において、宗派として独立したのは13世紀、鎌倉時代初期のことです。その立役者は、もともと天台宗に学び、当時の宋へ留学した栄西(えいさい)道元(どうげん)でした。栄西は、日本で最初の禅宗となる臨済宗を開きました。その特徴は「公案」と呼ばれる、特殊な問答にあります。


公案を工夫し、それに取り組むことを「看話(かんな)」といい、ゆえに臨済宗の禅風は「看話禅」と呼ばれています。臨済宗は貴族や武家といった上流階級の支持を獲得し、多くの有名な禅寺を残しています。


現在はいくつかに分派しており、中でも最大なのは、京都妙心寺を本山とする妙心寺派です。臨済宗開創より30数年ののち、道元が開いたのが曹洞宗です。「只管打坐(しかんたざ)」の言葉どおり、ただひたすらに坐禅を行うその禅風は、臨済宗の「看話禅」に対して、「黙照(もくしょう)禅」と呼ばれています。





禅の宗派のスタイルの確立

曹洞宗の坐禅は達磨同様、壁に向かって行います。これに対して臨済宗では、修行者が対面して坐禅を組みます。修行の基本である坐禅ひとつをとっても、それぞれの宗派のスタイルが確立されているのです。曹洞宗は今もひとつの宗派にまとまっており、日本の仏教中、最大な宗派のひとつです。現在は福井県の永平寺と、神奈川県の総持寺が二大本山となっています。



さらに時代は下って江戸、中国臨済宗の系譜を継ぐ高僧・隠元が来日帰化し、念仏と習合した禅である黄檗(おうばく)宗を日本に興しました。現在、日本における大きな禅の宗派は、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の3つ。それぞれの開祖はもとより、下に挙げた禅僧たちをはじめとする、さまざまな優れた人物を、禅は輩出してきたのです。




禅文化を切り開いた日本の禅僧たち

禅とは?を問い続けた名僧7人まとめ。



臨済宗の禅の基礎を築いたエリート僧「栄西」




1141〜1215年。日本臨済宗の開祖。備中(岡山県)吉備津宮(きびつのみや)の神官の家に生まれ、14歳で比叡山延暦寺で授戒、天台密教を学ぶ。宋に二度も渡ったエリート僧で、留学先で臨済宗黄龍派の伝法を受ける。帰国後、禅の布教を始めるが、在来宗派の圧迫を受ける。これに対し、鎌倉幕府に庇護を求めるという政治的手腕を発揮し、勢力を拡大。鎌倉に源頼朝の死を弔う寿福寺を、京都に建仁寺を開き、臨済宗の発展の基礎を築いた。(写真提供/建仁寺両足院)



禅に基づいてひたすら厳格に生きた曹洞宗の開祖「道元」



1200〜1253年。日本曹洞宗の開祖。父は内大臣・久我通親(みちちか)、母は関白基房の女という、上流階級の生まれ。14歳のとき比叡山に上り、天台座主公円のもとで得度。栄西を慕って建仁寺で修行後、宋に渡り、曹洞宗の如浄(にょじょう)の法を継いで帰国。日本初の禅の専門道場である興聖寺(こうしょうじ)を開き、45歳で越前(福井県)に修行道場・永平寺を創建。厳格な人物で、栄西と対照的に、如浄の教えを守り、鎌倉幕府には決して近づかなかった。著書に「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)など。(写真提供/宝慶寺)



頓智の一休さん実は反骨の恋法師「一休」





1394〜1481年。臨済宗の僧侶。後小松天皇の私生児として生まれ、母は南朝方の藤原氏。6歳で安国寺の侍童となり、後に華叟(かそう)に師事。大悟してからは一寺に留まることなく、雲水生活を送る。81歳のとき勅命により大徳寺住侍となるが、住山はしなかった。自ら「狂雲」と号して、僧侶でありながら女犯肉食(にょぼんにくじき)を堂々と行うなど、その自由自在な生き様は時代を超えて人々を魅了。洒脱な言行は伝説化され、「一休頓智咄」などを生んだ。



中国からやってきた黄檗禅の高僧「隠元」




1592〜1673年。日本黄檗宗の開祖で、隠元豆の普及者。明の福州(福建省)に生まれ、29歳で黄檗山に上り、得度。中国黄檗山萬福寺の住職だったが、明の戦乱を受け、63歳のときに弟子30名とともに来日帰化。江戸で将軍徳川家綱と会い、宇治に黄檗山萬福寺を創建、黄檗宗を開く。後水尾上皇が帰依するなど、大いに栄えた。中国の精進料理である、油や葛粉を使った「普茶料理」を伝え、煎茶道や書道も広めるなど、文化への貢献も。




日本臨済宗の再編に貢献した画僧「白隠」



1685〜1768年。近世臨済宗中興の祖。駿河国(静岡県)の人。15歳で出家したのち諸師を遍歴、信州飯山の正受老人より禅の真髄を示され、悟りを開く。松蔭寺に住侍してからは、各地を巡って教えを広めるかたわら、著述、書画など、精力的な創作活動を行った。その自由闊達な書画は、特に有名。また「隻手音声(せきしゅおんじょう)」などの新しい公案を案出、修行の眼目を公案中心に規定することで、臨済宗の再編につとめた。






子どもたちを愛し無一物を貫いた詩僧「良寛」



1758〜1831年。江戸後期の曹洞宗の僧、歌人。越後国(新潟県)出身。18歳で出家し、大忍国仙(だいにんこくせん)と出会って随行すること20余年。国仙の没後は、諸国行脚の後に帰郷して草庵などに住み、寺を持たず、托鉢(たくはつ)による無一物の生活を送った。子供を愛し、天衣無縫にともに遊ぶ姿は、奇行ととられたことも。


また書道家としても一家をなし、漢詩や和歌にも優れた才能を示す。弟子の貞心尼が編集した歌集「蓮の露」がある。



禅の伝道者・鈴木大拙という人

海外で「ZENと聞いて思い浮かぶ人名は?」と尋ねたら、真っ先に上がると思われるのが「DAISETSU SUZUKI」こと、鈴木大拙。




東京帝大に進むかたわら、鎌倉・円覚寺の釈宗演(しゃくそうえん)のもとで禅を学んでいた大拙は、19世紀末に渡米。思想雑誌を出版していた哲学者ポール・ケーラスの助手として、東洋哲学や仏教関係の雑誌編集に携わることになる。禅の書物の英訳にも力を注ぎ、仏教、および東洋思想を広く世界に紹介した。中でも「大乗起信論」の翻訳、著書『大乗仏教概論』といった業績は、高く評価されている。


研究生活の最中、後に将来の伴侶となるアメリカ人女性、ビアトリスと知り合う。彼女はコロンビア大学に学んだ才媛。禅研究を通じて親交を深めたふたりは、大拙の帰国後、横浜領事館で結婚式を挙げた。第二次大戦後も8年にわたって滞米。ハーバード大学やプリンストン大学などで、仏教哲学や禅思想の講義をしている。こうしたさまざまな活動が、いわゆる「ZEN」ブームのきっかけとなった。彼の膨大な蔵書は今、北鎌倉・東慶寺境内に設立された松ヶ岡文庫に収められている。



◆鈴木大拙

1870〜1966年。仏教哲学者。石川県金沢市出身。東京専門学校、東京帝国大学選科に進む。今川洪川や釈宗演に参禅、「大拙」の号を授かる。アメリカより帰国後も禅学を説くべく教鞭を握る。同郷で同年の哲学者・西田幾多郎との友情は、生涯にわたって続いた。